#999

ゲームのオアシス


ゲームのプレイ日記 独り言


薄々と感じるようになったのは、多分2006年夏頃だと思う。
正確には2005年の敬老の日をきっかけに、ニンテンドーDSブームは火がついた。
「脳トレ」「おい森」といったタイトルが
あっという間にトリプルミリオンを突破していった。
2006年末にはものすごい数が300万本を突破していた。

僕は一人の任天堂のファンとしては、ものすごく嬉しかった。
並ばないと買えないDSLiteやWiiにも、
“大衆的アイテム”のような雰囲気がある気がする。
しかし、そこで気が付いたのは、
これで『旱魃』という一つ目の意味を失ったということだった。
2004年9月開設当時、ゲーム市場はさっぱり目立たなかった。
3ヶ月後にDSが発売されても、最初それは今のような人気は決してなかった。
その事態を見て“大地が干上がったような市場”の意味を込めて付けたブログタイトルだが、
今やゲーム売り場は様々な人で潤っている。
これからもその勢いは止まらないだろう。

任天堂は『旱魃』を抜けてくれた。

ゲームの楽しみは、各駅停車の電車に似ていると思う。
巨大な駅から沢山の人が入ってくるが、停車ごとに人はどんどん減っていく。
ただし、減りっぱなしというわけでは決して無く、途中の小さな駅で人が来る事もある。
楽しさという電車は、そこに1人でも人が入っている限り、走り続ける。

電車に対して駅で待つ人は、気まぐれに電車に乗ったり、降りたり、
あるいは駅というもの自体に関心が無くなったり、
逆に初めて駅に来て改札口で戸惑ったりする。
どれもイマイチに見えたり、
あるいは長くの列車旅から帰ってきた時、昔乗った電車が懐かしくなった。
そんな“懐かしさ”を2005年7月当時の僕は『旱魃』と表現した。
それは電車に例えるなら今にも止まりそうな、田舎行きのものとでも言えようか。
都会を嫌い、田舎を好きこのむ人はいくらでもいる。
ゲームも、例え知り尽くした世界でも“知り尽くしたからこそ”2周目が面白い。
『旱魃』の楽しみ方はスコアアタックに打ち込む時のそれと少し似ていると、僕は思う。

とある日、友人が「ピクミン」を持っているというので
コンプリートクリアはできたか、聞いてみた。
数字的な答えは聞けなかったが、とにかく彼は2周目をせずに止めたらしい。
その世界観が自分に合っていなかったら仕方がないかもしれないが、
もしも自分が気に入ったとスタッフロールを見る時もなお思っていたのなら、
それで終わりはあまりにもったいない。
間を開けずとも、それはもう一度やってみるべきだと思う。
仮にその大地が干上がった時、その時ならではの楽しみというものもそれで味わって欲しい。

本当に面白い小説は、2度目、3度目と繰り返すたびにその面白さを発見する。
ゲームもほとんどがそれと同じような構成をしている。
財力のあるユーザーにも、逆に1本のソフトを買うだけでも金額に苦労する人には特に、
1本のソフトにあるそれぞれの面白さを噛み締め、
それを遊び尽くしても間をおけばまた潤ってくるような名作に会ってもらいたい。

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