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少し先の話


今日の出来事 独り言 自分


自分は何のためにここにいて、何のために生きているのか。
そんなのをしばしば考えることがある。

人が他人を見るときは、ともあれその身体の身振り手振りを見ながら
その人の会話を聞くことができるが、自分はというとそうはいかない。
鏡でもない限り自分の顔を見ることはなく、
たまに鏡を見て、これが“自分”なのかと落胆することがある。
“自分”は両目から見える視界と、両耳から入ってくる音を頭で処理して
今これから何をするべきかを判断し、行動する。
それは今の自分にとって最良と思うから動くのであって、
そう思うと人はいかなる時も結構本気を出しているものだな、と思う。
しかし、実行前の頭で誇大妄想になってしまい、
その考えていたことを実行してみたら体がうまく動かなかった、
あるいは他人の心を読み間違えた、あるいは知識の差異などから
相手に理解されなかったり、引かれたりすることもある。
“最良の行動”と思っていたものを、やるべきではなかったと後悔する度に
人は消極的になっていくのだと思う。
スキルもないのにリーダーシップを取ろうと思って失敗すれば
もうその人の中では二度とリーダーにはなりたいと思わないだろう。
何もしていないのにいじめられれば、何もしないということにすら追われて
もはや人並には行動できなくなるだろう。
それがそれぞれの人々の、それなりの“学習”というものかもしれない。

――と、前振りが長くなったが、ともかく僕は今、
何のためにここにいるのだろうと最近考える機会が増えてきた。
大学はサボりたい放題、アパートを飛び出して実家に居座り、
アルバイトもせずに毎日を放漫に過ごしている。
これだけでも相当人間の屑だろうに、そのうえ文学部というものに所属して
今更将来の可能性が狭いことが分かってきている。
文学部というのは、取れる資格が少なく、せいぜい教職や学芸員ぐらいである。
教職を取るか取らないかは入学直後に選択を迫られたが、僕は結局とらなかった。
だったら何をするのか。思えば、物書きの類は大学卒業でできるはずがないし、
そうなると将来の可能性はほぼ無に等しいことになってしまう。

ここから昨日書けなかった話になる。
昨日夕食の時に、親に教職は取ったかと聞かれ、取らなかったと答えると、
可能なら後期や2年からでも取っておいた方がいいと言われた。
ほぼ命令形だったと解釈しているが、果たして自分に教職など取れるのか?
教職の講義を取るということは、「教師になりたい」ということになる。
自分が小中高校生の先生になるなどといったら何人に笑われるか分からない。
というより、まさか自分にそういう選択肢しかないとは思わなかった。

実は、学校の先生というのに少しは憧れがなかったわけでもない。
高校生活で出会った先生という人たちを見て、
教師というのも面白いかもな、とかすかに思ったことがある。
しかし考えてみるとそれは私立だったからであって、
実際はその地位に簡単になれるはずないだろうし、そもそもの問題というのもある。
教職には、まさか大学では存在するとは思っていなかった体育が必修、
さらには教育実習というものもある。
それを自分がこなす姿など、到底想像できない。無理に想像すると笑えてくる。
もちろん苦笑の類の笑いである。

しかし、それらを乗り越えて、人手不足と言われる教員の職場につけば
結構面白いこともあるかもしれない。公立でも、ガラが悪くさえなければ
そこそこいいかもしれない。生徒に雑談をしてみるのも楽しいかもしれない。
しかしやっぱりそんな自分が想像できない。

無理だと思っている最大の原因に、1年前期にしてどん底に落ちた大学生活がある。
友達ができないと、こうも人間が嫌いになるとは思わなかった。
実際、僕は今通っている大学で会う人間すべてが嫌いになりつつある。
きっと、無意識でも話しかけないでくれという雰囲気を醸し出しているに違いない。
現実逃避の手段として、音楽や動画にのめり込むようになったし、
前期の間のブログで何度愚痴を書いたか数えきれない。
そんな大学生活を、一転して教職のために色々行動しようというのは無理がある。
僕がどこかで大学の学生を無意識にけなしているし、
その人たちの眼前で後期から突然積極的になるというのは、
今までの経験からしても相当無謀なところがあると思う。

後世のために身を尽くす世界――。
確かに、そこに矛を向けることができれば、
今の堕落した自分を立たせることができるかもしれない。
自分が何のために生きているのかという疑問を晴らすことができる。
しかしどうも、手に持っているはずの矛を見失い、立ちつくしている自分がいる。

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