#1912

何かを創る為に


独り言

その日、僕はひとつの世界を創ることに決めた。

*  *  *

世界の中心に自分が立つ。まぎれもなく、そこに僕がいる。
今ここにいる事、境遇の全てが、一寸でも違っていたら、それは自分ではなく、
そして世界は、僕がいなかったら、存在しないだろう。
それほどまでに、自分と言うものは、とてつもなく、貴重なものだ。
そのとてつもなく貴重なものが、今生きているすべての人の数だけある。
しかし、他人になることなど、絶対にできないのだから、
世界はひとつであると考えるしかないのだ。

その唯一の中心に自分がいると考えると、嬉しい気持ちになってくる。
僕がこの世界を自由にできるんだ。
何を創ってもいいんだ。
世界の外から入り込んでくる何かを並べ変えたり、
何もないところから何かを生み出すことさえできる。
そこにできた世界は、自分が宇宙で最も愛すべき場所になる。

大人への最後の一歩である就職活動という現実に目を向けるにあたって、
特に考えるようになったのが、“自分とは何か?”という素朴な疑問だった。
ここでいう自分とは、個性の事であって、一人称的な用法での“自分”ではない。
つまり、自分が持っている個性とはどういうものなのか、という、ごく単純な自己分析だ。

他人になくて自分にあるものは何か、とか、ある類似したAとBのどちらがいいか、
といった二択問題を延々と自問自答してみる。
そこには確かに答えの法則性が見え隠れしているのだが、しかしはっきりとは分からない。
そうやって、これ以上割り切れないような等式が蓄積されていく。

すべての他人が一切持たず、自身だけが所有する特性だけを個性とは言わないのだろうが、
しかし自分は絶対に一人しかいない。自分と全く同じ人間がいるはずないのだから、
ここには確かに自分という個性が一つ確立しているはずだ。
なのに、それを具体的に他人に明示するための表現が、見つからない。
何々が好きです、などという特性は、きっと世の中にありふれているのだろう。
それが広く世の中に知れ渡っている以上は、必ず同じ特性を持っている人がいるはずだ。
そうではなく、もっと限定的なものを探さないといけない。
先月にも書いた“自己表現”というものは、
その限定的な何かを、見つからない個性を、何らかの形にするという行動であり、
となれば、何をすればいいのか分からずに動かない状態が“無個性”と言える。
そう考えれば自己表現を伴わない個性、頭の中で思い描くだけの個性は
そういう意味で個性とは言えないのかもしれないが、
ここは大気圏内だけの話に限定するとして、行動しない個性も個性と呼ぶことにする。

人の努力は積み木だと思う。
子供のころは、まだとても安定しているから、次々に大きな積み木を積み上げる。
だが次第に高くなっていくと、子供のころに適当にやった分、微細な調整をする羽目になる。
そして積み重ねられる積み木も小さなものだけになっていく。
けれど、確かに今自分は高みにいるんだ、という満足感が、かろうじて崩壊を避けている。
積み木のひとつひとつは外界から与えられたもの。
積み木の数は自分が歩いてきた歩数。
積み木の高さが年齢。
積み上げようとしている努力が自己表現。
そして積み上げ方や微妙なずれの累積が、個性ということになる。
表現しうるすべての事柄は、先人達の産物であり、
自分というものは、それを再構築しているだけに過ぎない。
そう考えると、個性というものの追求も、なんだか虚しいように思えてならない。
外から入ってきたものの並び替えでしか自分を表現できないのなら、
自分に限りなく近い個性を持つ人が存在してもおかしくないし、
そういう存在がある限り、自分というものの価値はどんどん希薄なものに思えてくる。
僕はこういうものが好きです、得意です、をいくつか並べただけでは、
それは自分というものを明確に説明したことにならないし、自分自身でも誇りを持てない。
同列にいる他人によって推奨あるいは強要された“好きなもの”の場合、
それは自らが他人に個性を合わせたことになり、それを人は“没個性”という。
没個性という意味の通り、それは個性であることすら否定されているということになる。
世の中は、個性的な人間を求める場所と、没個性的な人間を求める場所があって、
少なくとも今までの学校生活では、
どちらかというと没個性的な人間が過ごしやすい環境だったように思える。
しかし、それももうすぐ終わると言うところになって、
突然個性を探さなければならなくなっている。
それは、必ずすぐそこにあるはずなのに、手を伸ばしてみると随分遠くに感じる。
いや、手を伸ばす必要すらないほど近くにあるものなのかもしれない。
ただ、異様に巨大なのだ。

この異様に巨大な何か――おそらくは“好きなもの”を積み重ねた何か――を、
何らかの方法で形にすることができれば、それはひとつの個性と言えるのではないか。
幸い、今の世の中には、“何らかの方法”に当てはまるものが沢山存在する。
いわゆる“芸術”というものが、そのひとつだろう。
それは、文章なら文章の、音楽なら音楽の、
それぞれの制約の中で暴れながら形になっていった、自分というものの凝縮体と言っていい。
分野別の制約が小さいほど、自分と言うものを明確に表現することができるが、
反面、表現するために必要なスキルも膨大なものになっていく。
そして、逆に制約が大きいものや、表現したものの情報体積が小さかったりすると、
完成してもそれは無個性に近いものである場合がある。
ただ、共通して言えるのは、それらは一つの空想世界を飛び出して、
現実という場所へ飛び出す事ができたということだ。
人は、本能的にその事を欲するし、あわよくば知らない世界の人々に評価してほしいと思う。
そして個性を発揮する為には、その最終目標まで到達しなければならない。
芸術分野でなくとも、他人の見うる世界へと発信する力がないと始まらない。
その自己表現力と、空想力は全くの無縁ではないだろうが、
どちらかが巨大でも、もう一方が小さくてはあまり意味がないのは事実で、
自己表現力というのはとても現実的であるために、それを養うのには多くの努力が要る。

個性というものが人々にとって需要のあるものになるためにはどうすればいいのか、
もうちょっと考えてみると、それは結局のところ行動力や運、環境といった
創造する世界を持っているプライドのようなものとはまるで無縁の答えが出てきた。
つまり、自分というものは他人の創造物の中にある自分にとって好きな物の積み重ねであり、
それを元に作った個性というものは、
自分が好きなものを積み重ねた数だけ認められやすくなり、
また自分にとっての完成度も高くなるというわけだ。
それにはまず、自分が好きな事を見つけるという行動が必要で、
場合によってはそれは運や環境などによっても左右されるものだと思う。
時には、これだけは好きになれないといったようなものを排他する時もあるだろう。
それは、認められやすい可能性を絞り込むと同時に、
自分というものを再発見したひとつのきっかけでもある。

個性を追い求める、もっと俗っぽくいえば自分を探すと言う事は、
自分にとって好きなものをひたすら追い求めるということだったのだ。

*  *  *

僕の宇宙の歴史に年表があるとしたら、それは2004年を境に時代が区切られている。
9年前か、厳密に言えばそれ以上前から作っていた「自分の世界」が、
思春期を迎えてしまうにつれ、日に日に自分“だけ”のものになっていった。
家族にすら見せたくないものにと変貌してしまったその世界を見て、
表現する方法を大きく変えよう、と決心したのが2004年の事だ。
2004年夏に一人目、2006年年末に二人目、2008年秋に三人目と四人目……
それは、ある意味では2003年以前の自分では考えられない変貌を遂げていった。
今の自分はこういう世界であることを楽しんでいるが、
あの頃の自分がこれを目にする機会があったら、とても怒るかもしれない。

自分だけが見る産物のつもりだったが、2003年夏以来付き合っているブログというものが
中途半端に自己表現できる絶好の舞台だと考え、
2007年はいよいよここで自分の空想を形にしてみよう、と思った。
しかしそれは、その矢先に待っていた大学生活と言うものに完全に飲み込まれ、
結果的に、自分というものを考えるのに2年程度のブランクを生むことになった。
気が付けば2009年。来年は2010年。
こうなったら一刻の余裕はない、今ある状態の自分を表現する時間は、
2009年という今しかない。そうだ、今年“だけは”頑張ろう。
そう思った矢先に、今度は就職活動というわけだ。

みんながみんなそう思う事なのかは知らないが、
僕は、他人に自分の産物を見てもらうことが、多分人一倍嬉しいと感じるし、
それの為に意味不明な労力を費やす事も、ある程度までなら苦にならない。
9歳の頃から培っている自分の世界というものに一度通した産物を見てもらい、
少なからず肯定的に評価してもらうということは、
それは自分のすべての肯定につながるからだ。少なくとも、今まではそう思い込んできた。
そして、自分が描く空想世界は11年の時を経て
とてつもなく巨大なものになっている、と今も思い込んでいる。
そこで出てくる弊害が、ちょっと前にも書いた、自分は完璧主義者かもしれないと言う事だ。
この空想世界を妥協して表現する、
つまり未熟な今現在の腕で表現することは過去の自分が絶対に許さないことだ。
もっと成熟してから本番に取り掛かるべきだ。
というところで第二の弊害である、自分に自信がないという欠点が登場する。
自分に完璧な自信がないのだから、結果的にいつまでたっても一歩目を踏み出せない。
思えば、ただそれだけの足踏みを、この5年間ずっと続けてきた。

この数日間、この文章を書くために色々と“個性”について模索してみて、
結果的に自分が好きなものを検索することから始まり、
それをとにかくひたすら数をこなす事が大事だという結論に至った時は、軽く絶望した。
なぜなら、“他人の作品に触れすぎる事は個性を作るにあたって悪影響になる”
というある意味排他的な考えが、今までの自分の考え方の根底に常にあったからだ。
それは簡単に言えば、パクり嫌いとでもいうべきか、
当時の自分には、他人の作品を吸収するとかならずそれを真似してしまう自分が嫌だった。
他人に好かれるものは自分が何もないところから生み出すものだと思っていた。
そういう感情すら無い時代には、大手を振って自分の思い描くものを書いていったものだ。

ここ2年ほどで、いわゆる“自分ルール”なるものを次々に破る傾向がある。
今までの考え方が間違っているということにうすうす気が付いていたのかもしれない。
日を選んだり、自分が未熟と知ると一歩も踏み出そうとしない自分を、
“今一度だけ破ってみよう”という気持ちを生み出して、何か行動をさせてみる。
結果的にそれが大きなプラスになったとはまだ言えない状況ではあるが、
今日始めた事も、ある意味ではその延長線上だ。
いつまでたっても一歩目では駄目だ。今年の目標は、二歩目を踏み出すことだ。

しかし、問題は、無意識下にしろ意識的にしろ、
個性とは何か?という疑問は就活という時期だからこそ考えていたのだが、
ここまで考えて結局仕事という単語とは結び付けることができなかったということだ。
理想ばかり語っているのが自分でも分かる。
次は、これを踏まえてもう少し深く掘り下げてみる必要がありそうだ……。

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