#2380

どこまでも


web制作 独り言


確か高校一年の現代社会の授業中だったかと思う。
新しいブログのタイトルを決めるために、僕はうつろに英和辞典をめくっていた。
意味からはまったく考えずに、ひとまずカッコいい響きの単語はないかと探した。
ふと、裏表紙に載っている発音の一覧表の“gh”という文字を見つけた。
knightとか、throughといった単語で読まない部分のあるアレの事だとすぐ分かった。
英語が大嫌いだった当時の僕は(今も嫌いだが)、
読まないのに書くという日本語では普通ありえない法則に惹かれて、
この“gh”を含んだ単語にしようと決めた。これ以外に深い意味は全くない。
そして、Aから見て行って4番目のDにたどり着き、“Drought”という単語を見つけた。
意味は旱魃、日照り、欠乏。
英単語を見た時点ですでにこれを使う事は確定していたと言ってもいいのだが、
意味を見て、ふと2004年当時のゲーム市場衰退の現状や、
ゲーム&ウォッチの生みの親の「枯れた技術の水平思考」という言葉を思いつき、
案外ゲームと関係なくもないんじゃないか、とますますこの単語を好きになった。
Eから先の辞書をまるで見ずに確定したのは当時の自分らしいといえば自分らしい。

「of」は何となく付けたかったから付けたというのが当時の理由なのだが、
だったらせめてdrought of gameと正しい並びにするべきだったとは思う。
とはいえ、今ではそれは違和感がありすぎて、
もはや間違っている現行のタイトルの方が正しい英語だとも思ったりするのだが、
ともあれ、そうして2004年09月01日、このブログは生まれた。

果たして、あの頃の僕が本気で6年後の自分を想像したとして、
それはどれだけ本当の6年後の自分と一致するのだろう。
ブログの周り一つを取っても、まずパソコンが代わり、ブラウザはFirefoxになり、
ブログはメモ帳で執筆するようになり、平均文字数は激増した。
他では、ゲームを録画できるようになり、
まだまだ下手以前のレベルとはいえペンタブで絵を編集できるようになり、
iPod touchという新たな端末との出会いもあり、
作業用に聴く音楽の曲数は40倍近くに膨らんだ。

それなのに、ゲームとの距離が遠ざかったという、
ただそれだけの理由で、このブログは日記だけの更新という衰退時代がもう何年も続いている。
ゲームレビューがどうのこうのというだけが問題ではなく、
いろいろな事に目が散って一つの事に“ハマり込む”という事があまりなくなり、
その結果、自分のした事の記録が実に平坦なものになっていった。

6年が経ってなお、この衰退時代にあってブログを続ける理由がハッキリと定まらない。
衰退から脱出するために続けているのか。
続けるのが当たり前だから続けるのか。
6年前とは違う何かをするために続けるのか。
止めたくないから続けるのか。こう考えると、日記というのはまるで呼吸や食事のようだ。
そういう意味では、消極姿勢でこれを考えるのはまったく無意味なのかもしれない。

日記を通じて今の自分が今の自分を良く見れないのは、
自分に自信がないという意味もあるだろうが、それ以上に自分が6年前と変わったからだと思う。
6年にも渡って芯から変わらない考え方をするのは難しい。
けれど、人はその何倍もの時間生き続けていて、その根底にある何かは、
物凄い時間を見事につないでいる。
僕が自分の根底にあるそれを見つけるのはいつになることだろう。

少なくとも大学生活に於いては、このブログはそれなしでやってきた気がする。
習慣という名の表面上の繋がりで約千日に印をつけてきた。
こうして見ると、ブログというのは自分というものが定まらなくても
何年も繋げられるものなのかもしれない。
むしろ、その根底の何かを探す為のものなのかもしれない。
4年も前に同じような事を書いた気がするが(あの時は“生き甲斐”と表現した)、
まだそれらしきものを見かけないという事は
まだまだ時間が足りないのか、努力が足りないのか。

*  *  *

歩いても歩いても景色が変わらないと思っていたら、背後の空が真っ暗闇になっていた。
それでも旅は終わらない。地図の真ん中には常に自分がいて、
迷っているのか進んでいるのか、どこへ行けばいいのかも分からない。
ただ、どこまでも続く道を歩くだけだ。
……今僕は、どこにいるのだろう。

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