#2600

東北地方太平洋沖地震


今日の出来事 独り言


2011年、東北地方に春は来なかった。

――地元新潟が7年前、大地震に見舞われた時も、僕は平然とした顔をしていた。
ブログでも一度、「やっぱ人間って、天災には敵わないです。」
と何だか格好つけているかのような台詞を吐くだけで、他には何も触れていない。
今回の事も、大地震が起きたあの日、僕はといえば
真っ昼間から寝ていたら夢の舞台が揺れて、その地震によって目が覚めたのだが、
その後二度寝するという危機感のなさを露呈していた。
『揺れる目覚ましと揺れない生活』という当日のエントリータイトルは、
今思えば不謹慎極まりない事だと思う。
平坦で非充実な自分の暮らしと、今回の地震が比べられるはずもない。
あの地震が“目覚まし”であるはずがない。
むしろ、まさにあれがこの国の、東北地方の、悪夢の始まりだった。

この記事はブログ上では2,600番目の記事になる。
記事番号が100倍数に当たるエントリーは
2004年からずっと何かの記念として記事を書いてきたが、
今回だけは“祈念”として、当日の記事に変わって震災の事を書き残したいと思う。

とはいっても、“揺れない生活”と言いながら、
自分の生活は大学卒業を皮切りにブログ投稿すらままならない状況が続いており、
結局このエントリーは後回しにされ続け、この節以降を書いているのは
すでにちょうど半年が経った09月11日だったりする。
それでもなお覚えている事といえば、
当日だったか、その翌日にテレビで見た津波の惨劇がまず思い起こされる。
――向こうから一面の濁流がゆっくりと迫ってくる。
津波というものを初めて見た無知な自分には、
それがそこまで驚異的なものであるとはその時点では分からなかったが、
津波が何台もの車を軽々と押し流して、内陸の方へと追いやってしまう姿には戦慄した。
車だけじゃなく、家も自壊するようにぐしゃぐしゃになって、
突然ぷかりと浮かんだかと思うと車などと一緒に流されて行ってしまう。
車庫の屋根がそのまま流されていくところも見た。
この震災の犠牲者は二万人だというが、実際には津波に流された人の特定は難しく、
それを遙かに超える人々が犠牲になっているという話をどこかで耳にした。
ある東北沿岸部の町は町民の半分近くがいなくなってしまった。
同学年の半分の生徒が行方不明になってしまった学校の話も聞いた。
生き残った人の心中はもはや計り知れない。
他人に対する情に薄い自分ですら、この時だけは、
そういう話を聞くと喉の奥が締め付けられるような気がした。

地震発生の翌日から、新聞はほとんどすべてがこの地震の記事になった。
本来テレビ番組欄のある裏表紙には、南三陸町が廃墟と化し何もなくなった場所と、
03月10日までの同じ場所を映した写真が載っていた。
震災は東日本大震災と呼ばれるようになった。
最初の地震は、最初は様々な呼び名があったような気がするが覚えていない。
すぐに「東北地方太平洋沖地震」という名前に定着していった。
福島にある原子力発電所が大変な事になっているというニュースが飛び込んできた。
ほぼ十年ぶりに話した母方の祖父とは、この地震の事を少しだけ喋り合った。
大学卒業直後、次のアパートを決める為に電車を乗り継いでいった時、
何号機だったかの発電所から煙が上がっている、
という速報を駅で見たのが印象的だった。誰もがテレビに釘付けになっていた。

計画停電、という言葉を耳にした。
それは結局体験するには至らなかったが、この半年間で「節電」という言葉は、
ほとんど毎日耳にしてきた気がする。
引っ越し直後、初めて見に行った近くのホームセンターで、
店の半分以上の照明が消えており、カップラーメンやペットボトル飲料のコーナーが
文字通りスッカラカンになっていたのを見て、
ああ、他人事じゃないんだな、と思った。避難食料の事はともかくも、
店内の節電、街灯の消灯、自動販売機の「消灯していますが、販売しています」
という張り紙は、もはやお馴染みのものになった。
入った大学院に設置されていたATMは、かなり最近まで節電のために止まっていた。

ここまで自分に近いところに影響を与えているのに、
地震に対する自分の気持ちのどこかに、単なる興味本位や、
時代に乗って行こうというだけの気持ちで済ませているような部分があるのが
何とも言えずやりきれない。無論、自分にできる事といったら節電くらいで、
後はチャリティアルバムを買ったりもしてみたが、
それが一体どれほど被災地にとって無に近い支援なのか想像も付かない。
ここまでの半年間、地震について考える時間も、あまり多いとは言えなかった。
確かに、七年前の地震と比べると相当行動している方だとは思う。
それでも、自分本位でない理由というものがなく、
知らない他人の為に尽くそうと思わないのが悲しいところだ。
地震発生直後、実際に喋った事もないが
東北地方に行った事を知っている高校時代のクラスメイトの事が気がかりで
その事を意識していた時期もあったが、後に無事である事を確認することになる。
あの頃が、もしかすると一番地震に対して真摯だったかもしれない。

この地震でwebの世界は少し前向きに捉えられるようになったように思う。
地震発生直後の情報伝達はマスコミよりもTwitterの方が早かったと聞く。
そのTwitterを中心に、web上では「#p4j」(pray for japan:日本のために祈ろう)
という言葉を掲げて、さまざまな人が活動した。
情報発信を趣味のひとつに数える人は、
こういう時に他者のためになれるのかもしれないと思いつつ、
僕はその様子を遠巻きに眺めていた。

日本が2011年03月10日以前の日本に復興するまでには、
どんなに頑張っても何十年という時間がかかる事になるらしい。
ゆとり世代、新世紀、情報のデジタル化、世界不況、政権交代、
そしてこの東日本大震災と、自分たち1988年生まれやその前後の世代は、
本当に波乱の時代を生きているようにつくづく思う。
不況で就職難かと思いきや、
今度は復興時代の社会人という舞台に立たなければならない同世代や年下もいるだろう。
そう考えると、今の自分の存在は重ね重ね不甲斐ない立場にあるものだ。

せめて、自分が覚えている限りの震災の事を書き残すという、
ブログをやってきた人間の義務くらいは果たしたいと思いながら、
ここまで大分箇条書き気味に書いてきた。
人災と言われている部分を除けば、やはり地震は7年前の自分が言うとおり、
ただひたすらにどうしようもない存在なのかもしれない。
誰も罪がないのに何万の命を奪われ、国や世界という名の家が大打撃を被る事になる。
ただ、だからこそこんなときに人は情に厚くなる事ができ、
それが後人生に影響を与えるかもしれないと言う事を、
後に生きる人に伝えていけたらと、思う。

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