#3040

好奇心の話


独り言 自分 音楽


『これはきっと大切なんだろうからちゃんと頭に入れよう』

そう思って聴く大学の教養科目、中学高校の苦手科目の授業、
あるいはインディーズゲームのよく分からないチュートリアル、
PCの独特な法則で翻訳されているヘルプ・ドキュメント、
そういったものがふと頭に入ってきたとき、感動でも興奮でもない、
なんだか気持ちよくて頭がふわふわするような時がある。
大切なものが本当にいとおしいと思ったときの気持ちに似た感覚だと思う。
映画などの動画作品や漫画はどちらかというと“感動”の方が多い。
文学作品は、思春期に読んだものは頭がふわふわするような事もあったが、
今はほとんどなくなった。
音楽は、ダンスポップなどの方面ではやはり“感動”の割合が大きい。
ただし、エレクトロニカ方面の音楽を低音量で聴いていると、
まれにこのふわふわ時間を提供してくれる楽曲に出会う事がある。

「好意的な解釈」というのは、一見するととても自己完結的な言葉に見えるが、
その正体はそれぞれが芸術をより楽しむための可能性で
決して小馬鹿にできる存在ではない。
しかし、それは個々人が知恵の輪のように心と繋いで持っているようなもので、
他人の解釈を見せて貰っても、往々にして自分のパズルを解く手がかりにはなり得ない。
僕は、幼少の頃からあったあのふわふわする感覚は、
未知の世界に触れる時に感じる「好奇心の正体」だと思ってきた。
それはこれから触れるものに対してのワクワク感から溢れてくる「想像力」でもある。
これが働いている時は、大抵分かった気になっているだけで、
今飲み込んでいる芸術をすべて消化する事はできない。
しかし、自分の頭の中では何か物凄く楽しい世界が展開しているような気がする。
先月初頭、拙いながらも小説執筆に挑戦した時、そんな事を考えながら書いていた。

エレクトロニカのアルバムをiTunesなどを使って探していたら、
とんでもない音楽に出会った事がある。
それは0/rの『Varied』というアルバムで、
人間には聞き取れない周波数の音域も使って構成した音楽を収録しているらしい。
アンビエントの一分野にはローアーケースというものがあるそうで、
聴き手に押しつけないジャンルであるアンビエントの、極端な例をこう呼ぶそうだ。

似たような例にジョン・ケージの『4分33秒』と呼ばれる曲がある。
これは楽譜通りに指揮者が行動するとすれば、それは煙草を吸ってもいいし、
飲み物を飲み始めてもいいし、寝てもいい。
リスナーはそういった会場の音を聴くのみの4分33秒を過ごすというもので、
アルバムに収録されているトラックは最初から最後まで無音である。
そういった自然な生活音を持って音楽とするという考え方は偶然性の音楽と言うそうで、
もはやここまでくると哲学的な風味さえ漂ってくる気がする。

これらを知った時、真っ先に「好意的な解釈」の事を思いついた。
これらに限らず、エレクトロニカのうち実験的要素が強い音楽群は、
すっぴんの音楽に、こちらから前向きに解釈してやる事で初めて、
お気に入りとしての形が成立する事が多い。
例えば、「不気味」と「綺麗」の境界線の曖昧さは、好意的な解釈で動かす事ができる。

好意的な解釈ができなければ、それはその他の多数の音楽に埋没してしまうだろう。
アーティストやジャケットイラストが好きで衝動買いしたアルバムを聴くと、
好きか嫌いかが極端に分かれる事が多いのは、この解釈のせいだとも思う。
どうしても好意的に解釈できないと、悔しいし、
それは自分が音楽に対する愛情がないのではとも思う。
逆に、周りが低評価を付ける何かに対する好意的な解釈を発見した時はとても嬉しい。
ついつい、理由付けという名の付箋紙を貼っておきたくなる。
でも、それはいつだって他人に見せびらかすのは望ましくない。

何かを好きでいられるのは、技量があってのことだし、
それは何者にも否定できないんだという事を、今改めて感じる。
それはもしかすると、思春期の片思いにだって言える事かもしれない。
片思いという名の好意的な解釈は、成就する可能性を失うほどに肥大化していって、
いつしかそれは紙の上にこぼれるようになって、芸術になっていた。
不老不死の力を得る代わりに意志を失った感情は、
「好意的な解釈」の上でだけ、歩き、喋り、眠り、成長していくのだろう。
それが好意的な人々の解釈と行動の繰り返しによって生まれているものだと考えると、
今、2012年に生きている事が、ほんのちょっと誇らしくもなってくる。

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