#3123

紡がれてゆく


web制作 独り言


このブログを開設してから今日で八周年を迎える。
当日以内に投稿するための負担が増え続けているから、という名目で、
2008年以来何度も構想を頭に浮かべることがあった移転計画、もしくは閉鎖案。
去年末頃はそれを初めて具体的にブログトップの告知をするというところまで行き、
結局実行することはなかった。
止めようか、止めまいか、そんな事を呟く事に実は意味なんてない。
昔から今も、結局のところ止めた後の事が考えられないというのは一貫していて、
だから去年末の存続危機の時も、結局八周年は無事に迎えるんだろうな、
という事はなんとなく考えていた。
死ぬまで書き続けようと思っていた2005年頃の野望は、
まだ完全には消えてはいないらしい。

そんな自分が、もしも初代ブログを開設したあの時、
ブログではなくレンタルサーバーを紹介されていたら、どうなっていたのだろう?

2001年末の『大乱闘スマッシュブラザーズDX』をきっかけに出会った、
当時ですら20年以上前のレトロゲーム、ゲーム&ウォッチ。
まだ、親の許可がなければPCの起動すら許されなかった当時、
あるレトロゲームの紹介サイトばかり見ていた事がある。
webサイトの存在をその時知り、
いつしか自然と自分でも作ってみたいと思うようになった。
それは、それまでにやっていたノートの上での創作活動が、
webサイトという媒体で置き換える事ができると考えたからかもしれない。
サイトを持ちたいと思ったきっかけはそれがほとんどすべてで、
今までに何度も書いてきたように“日記を書きたいから”という動機は全くなかった。
だから、もしあの時交流サイトでサイトを持てるサービスはないかと誰かに訊いた時、
楽天ブログではなく、例えばYahoo! Geocitiesのような
いわゆるホームページ提供サービスを紹介されていたら、
僕のwebでの活動は、もっと限定的になっていたのかもしれない。
2010年に“新本家サイト”と銘打って開設したような形式のサイトを、
もっと昔から作っていたかもしれない。

自分にとっては、どっちが良かったのだろうか?
新規訪問者の大半が検索エンジンから来るというwebの事情を鑑みると、
専門的にならざるをえない個人サイト運営の方が、
ネット上の誰かとのつながりは得やすかったのではないかと思う。
もし、個人サイト運営の過程で創作活動を本格的に始める勇気があったら、なおさらだ。
ただし、自分の性格を考えると、
大学入学辺りの転機で一気に自己満足の世界に閉じこもって、
今と変わりない状況になる可能性は大いにある。
また、2002~2004年でブログと出会わなかったとしても、
その翌年のブログの流行で、どのみち日記を始めていた可能性はかなり高い。
少なくとも確実に言えるのは、個人サイト開設からwebでの活動を始めていた方が、
今よりよっぽどweb制作やデザインの知識や技量は上達していたのだろうとは思う。

そういった可能性を振り切って得られたのは、八年分の日常生活の足跡だった。
他人にとってはあまり意味の成さない900万文字の文章。
自己満足という意味で言えば、ブログの方がよっぽどその比率は大きい。
ある意味で、真っ当なweb活動をしていないとも言えてしまうかもしれないし、
その逆で、自分のすべてをwebに晒してしまっているとも言えるかもしれない。
日記記入率100%を目指そうという八年前の気まぐれのために、苦しみ続け、
悩み続けて今日これまでなんとかやってきて、
これからも当然続くんだろうと観念している自分がいる。
継続が力になるのは向上心があるときだけで、
向上心がなければ本当は、人の努力は石を穿つ力なんてない。
それでも結局今の僕は、この八年間のどこかで発揮したはずの向上心の塊を、
こうして背負っている事がアイデンティティーになっている。
今の自分には向上心がないかもしれない。
でも、だからといって過去の向上心を捨てる事はできない。
そこには、年齢を重ねればきっと
過去の実績も背負いながら何かできるようになるはずだという未来への期待と、
過去にやった成果を反復することで
非生産的な今現在の自分を覆い隠そうとする卑屈な心が同居しているのだと思う。

日記を書くことそれ自体は、もはや肯定も否定もしようがない。
ただ手元にあるのは、日記という形で約3,000日前から昨日まで受け継がれてきた、
たったひとつのバトンだけだ。
昨日の自分が今日の自分ににバトンを渡す。
バトンを受け取ろうとする手が、いつまでも動かなかったり、
昨日のランナーにケチを付けてしまったり、
あるいは過去のバトンに思いを馳せて眠れなくなったりと、
そうやって僕は“自分”という人間と付き合ってきた気がする。
少なくともこの八年間はそうやって紡がれてきた。

そう考えると、今の僕がバトンを持って走らなければならないのは、
明日までのほんの短い時間なんだという事に気が付く。
これまでのあらすじに、ちょっと距離を付け加えるだけで渡せれば上出来だ。
そこには、無意識的であれ意識的であれ、
日記を書く以上、バトンを渡す相手の事はどこかで考えていることだろう。
もしかして、日記を書くという事は
とても前向きな活動だと言えはしないだろうか?

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