#4400

背比べの話


独り言 自分

「銀メダルを獲りました」と言うと「金メダルは獲れなかったんだね」と言われる。
「給料はなん十万円です」と言うと「税金が酷そうだね」と言われる。
「今はこの趣味が面白い」と言うと「俺のやっている趣味の方が凄いよ」と言われる。

そんな風に切り返されると丸腰に向かって刃を突き立てられたような気持ちになり、
「ああ、この人はどうしても僕に勝ちたいんだな」という哀れみの目を向けるようにしている。
人は誰しも自分さえ良ければそれでいいと思う動物なんだからしょうがない、
と言い聞かせながら、他人のつまらない御託に耳を傾けている。
そして自分自身が主張することをいつの間にか諦めている。
会話は勝負ではないと分かっていても、話の流れが僕をそっと隅に追いやろうとして、
そしてそれに抵抗する気力が無いと、
「今回は負けでもいいか」と言い聞かせようとする自分がいる。
だから揚げ足を取りたがる人と会話をするのは面倒くさい。
しかも都合の悪いことに、“他人” の多くがそれに当てはまるものだから、
どれだけたくさんの人との出会いを繰り返しても、
結局独りでいることが何よりも深く息をつけることはいつまで経っても変わらない。

それはまず何よりも自分が、他人に勝ちたいと思う気持ちがあってこその心理なのだろう。

僕が学生時代におかしてきた失敗の数々は、そんな風に「他人に勝ちたい」
「他人に認めてもらいたい」という欲求が大きな原因として占められているように思う。
他人と比べて僕ばかりがこの欲求を強く持っていたのかどうかは分からないが、
他人と比べてその抑制が下手だったことは認めざるを得ない。
――じっとしていてもこの欲求が解消されないことは明らかだ。
じゃあ何か言葉を発してみようと、その機会を掴んだときに自分を表現しようとする。
しかしどうも「伝わった」という実感を掴めずにもどかしい思いをする。
もっと奇をてらった方法なら他人の注目を引けるかもしれない。
これまでに生み出されてきた黒歴史の数々は、そうした段階を踏んで成り立ったものばかりだ。

*  *  *

努力を信じない人たちは、手っ取り早く自己実現できる方法を常に求め歩いている。
それを求める時間を使って努力を積み上げることが
自己実現において最も近道になることを薄々と分かっているにも関わらず。
だから著名人や政治家が一生懸命頑張っても実にならない姿を見ていると安心する。
「なんだ、大したことないじゃん」「こいつらダメだな」
と、画面に向かって無慈悲な言葉を浴びせかけ、
未だ行動していない自分の自尊心が「まだ安全」なことを確かめようとしている。
下手に動いたらあの人たちのようになる、だから動かない自分は賢明な人間なのだと。
認められないことに慣れると、認められようとすることそのものよりも、
この状況が自分だけではないという事を知ろうとする方に注力してしまうのは人間の性なのか。
僕はそんな風にメディアごしに喚く人をやまほど見てきたし、
そんな人たちを俯瞰して心の中で小馬鹿にしている自分も、根底にあるものはさほど変わらない。

今の時代は「他人の失敗」をゼロ距離で見る機会が多すぎる。
だから他人と関わるほどに、自分の未来が不安になってふと孤独に身を隠したくなる。
「他人に認めてもらいたい」という欲求は常に携えているが、
それを曝け出すにはこの社会はあまりにもリスクが大きい。
そうこうしているうちに欲求不満は化け物のようになり、
それを避け続けているうちに自分が何者になりたいのかを忘れている。
何者になりたいのかを忘れている自分を忘れたいから、他人越しに見る自分に敏感になる。
かろうじて得た実績に対して否定されたくないという気持ちが強くなる。

完璧主義は、否定されたくないという気持ちの累積であり、巨大な劣等感のようなものだと思う。
他人に認められさえすればこの問題は果たして一挙に解決できるものなのか。
他人に認められたことのない僕にはまだ分からない。
もしかすると、他人が今まで認めようとしてくれたサインを、
僕が気付かなかった、あるいは気付こうとしなかったのがすべての原因なのかもしれない。
そもそも自分にとって「認める」ということと、世間一般のそれとがズレている可能性もある。

僕が承認欲求を満たして次のステップに足を上げる日はまだ遠いように感じられる。
しかし、同時にこの問題は一人の大人として生活の質を上げるための、
2010年代の自分に課せられた大きなテーマであるようにも思う。
他人に認めてもらうためにするべきだったことは一体何だったのだろう、と煩悶を繰り返しつつ、
満たされなかった学生生活の一端に思いを馳せてみる。

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