#4979

興味のない話


独り言

コミュニケーション能力そのものについて思い悩んできたこの数年間の末に、
行き着いた答えがひとつある。
それは「コミュニケーション能力がない」と言っている人の多くは、他人に興味がないということだ。
より正確に言えば、その人が所属するコミュニティにおいて、
「所属する以上はここまでの範囲は興味を持って欲しい」という暗黙の了解を満たせないとき、
その人はそのコミュニティで「コミュニケーション能力がない」人になる。
だからあるコミュニティを脱出してもっと小さなコミュニティに帰れば
その人は何の問題もなく立ち振る舞いができるかもしれないし、
逆に「あの人はコミュニケーション能力が高い」と思われる人でも、
別のコミュニティに投げ込まれたら石像のように思われているかもしれない。

僕がかつて自分をして「コミュニケーション能力がない」と言わしめていたのは、
自分から見た世間で必要とする社会儀礼の数々をこなす要件を自分は満たしていない、
という自覚のもとに生まれた劣等感にすぎない。
それは、心の内ではなにも「声が出ない」「話を聞けない」「文を読めない」「字を書けない」
という伝達技術そのものを指して絶望していたわけではなく、
ただ単に、その場その場で興味を持つべき人間に接する覚悟がなかっただけなのだろう。
その結果、伝達技術を使う必要がなくなっただけで、
その行為をしていないことそれ自体はあまり問題ではないはずだ。

にもかかわらず、僕は長い間、さも伝達技術そのものに原因があるのだと思い続けてきた。
それを持たないからこそ、人に嫌われ、疎まれ、心は永遠に苛まれるのだと。
でもそれはあくまでも「手段」であって、
手段は目的を持たないからこそ停滞しているだけだ。
「書くこと」も伝達手段でコミュニケーション能力なら、僕はこんなにも書き続けているじゃないか。
それを「書くことに特化しすぎている」と責めてみることはできるだろうが、
コミュニケーション能力がないという話にはならない。
僕がそれでもコミュニケーション能力がないと言い続けてきたのは、
「伝わった」という実感に対して真摯に向き合ったことがないだけなのだろう。

では、(最低限の)伝達手段を持っているにもかかわらず、それを滞らせた原因はなんだったのか。
言い換えれば、僕が仮に人並みのコミュニケーション能力を持っていたとして、
何故他人に興味を持とうとすることができなかったのか。
それはおそらく他人と意思疎通をしようとしたときに大損をした経験が忘れられないからだろう。
例えば他人と対話や会話をした結果、
自分の持っているこだわりや信念を否定されるなどして自尊心を傷つけたことがあったら、
「他人とコミュニケーションを取ると自分なりのこだわりを失う」
と考えるのは自然なことだし、それが繰り返せばその自衛策はより強化され確固としたものになる。

その仮定には、さらに考えなければならない疑問がある。
それは、他人に何かを言われて傷付くほど脆い「自尊心」の正体は何なのかということ。
僕の自尊心は最初から他人に否定されるだけで傷付くようなものだったのか。
あるいは、否定され続けることによって脆くなったのか。

おそらく、その脆さの根底にあるのは「後ろめたさ」なのではないか。
自分が欲する何かは例えば年齢不相応だったり、低次な欲求だったりする。
あるいは高次な動機を持っていると信じていても他人からしてみればそう見えないこともある。
何故そう思うのかというと、他人とのコミュニケーションによって他人にそう教えられたからだ。
自分はこれが楽しいと思うことが、世間一般では些細な物事に過ぎないことは間々ある。
そして、それに興味を持たない人にとって、自分の大切なものはどうでもいいものに過ぎない。
往々にして、自分が強く興味を持つものほど、他人の眼は相対的に冷たいものであり、
そして自分が「否定されたくない」と信じているものであることが多い。

好きなものは他人と共有できた方がより好きになれるし楽しいということは、
幼少の頃から当然のように理解してきたことである。
思春期前までは自分の好きなものと周りの好きなものに共通部分が多かったから、
コミュニケーションも尽きなかったし、友達を知ろうとする努力もしてきたように思う。
ところが思春期に入ってしばらくして、ある瞬間に突然周りの世界が一変した。
今まで唯一最高だと信じていたものは膨大な選択肢のひとつに過ぎないことを思い知らされ、
そして周りの人間は新しく目に映るものに飛びついていった。
僕は立ち尽くして思った、「まだ手に持っているものを手放せない」と。

僕が既存の何かを「選択」したことはその時点において最善だったと思わせる何かあったはずだ。
例えば流行を追うことに対して否定的な家族がいたり、
あるいは既存の何かを取り囲む人間関係が自分にとって十分に充実感をもたらすものだったりしたら、
それらを切り捨ててまで新しい何かを手に取ろうとする必要はない。
それが、たとえより多くの属性の人間と交流する機会を棒に振ることになろうとも。

僕が育った環境は、テレビで取り上げられたり学校の休み時間で話題になるような
普遍的で一般的な文化をあまり積極的に享受し追いかけようとはしない風潮があった。
家族や親戚が多いので兄弟間で遊んでいれば十分だという観念が根強かったこともあるだろうが、
結果的にそれが、世間の中心に対する興味関心の薄さ、
ひいては「他人一般」とのギャップを感じるようになった一因であるように思えてならない。

それがすべて自分自身が許容できる範囲の狭さの原因とは言えないだろうが、
結局のところ、人の考え方の傾向や理念、人生観といったものは、
ある環境に投げ込まれ、そしてそこで自分なりに最善の一手を選び続けてきた結果に過ぎず、
結果として存在する自負や劣等感といったものそれ自体は、
成功や失敗、善や悪というような価値基準では推し量れないのではないかということを改めて感じる。

「できないこと」を何故「できないこと」と認知したのか。
できるようになりたいという願いがあるからなのか、あるいは単にそれをする必要がないからなのか。
劣等感に囚われ、「できないが、できなければならない」などという自己矛盾に陥る前に、
それを本当の意味で客観的に捉えられる、そんな自分対自分のコミュニケーション能力が欲しい。
そうやって自分と対話し続けることでようやく、
「他人に興味がないこと」は解決するべき問題なのかどうかが見えてくるような気がする。

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