#5760

哲学の始め方


備忘録

苫野一徳『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書、2017年)を読みました。

本書は哲学が2500年かけて培ってきた「思考のコツ」を、分かりやすく伝授してくれる本です。
現代社会はさまざまな問題に溢れています。
例えば「生きる意味ってなんだろう?」「教育ってなんだろう?」
「どうやったら人は幸せになれるのか?」
哲学は、そういった疑問に対して「なるほどそれは確かに本質的だ!」
とうなってしまうような答えを導き出してきました。
その思考法にはいくつかのコツがあるといいます。
本書はそのコツについて、哲学的思考の実践ができるように教えてくれます。

*  *  *

そもそも哲学というと「答えの出ない疑問を延々と考えている学問」のようなイメージがありますが、
それは誤りです。これまでの哲学者たちは、例えば「生きる意味とは何か」
といったような問題にできるだけ多くの人が納得できるような、
つまり本質的な答えを出そうとしてきました。
哲学というのは、さまざまな物事の本質を捉える営みなのです。
しかし、物事に絶対の真理などというものは存在しません。
では、できるだけ多くの人が「それは本質的だ」
と言えるような答えを出すにはどうすればよいのでしょうか。

物事の本質を捉えるにはいくつかのコツがあります。
ひとつは「一般化のワナ」に陥らないこと。人は誰もが自分の経験をもとに考えます。
それ自体に特に問題はないのですが、もし自分の経験を、
あたかも世間の常識であるかのように話してしまったらそれは大きな問題があります。
「私はこんな方法で成功した。だからこのメソッドを広く取り入れるべきである」
というような主張がその典型です。誰もが自分の経験から考えることは間違っていないけれども、
その経験を広く一般化してしまうことは哲学的思考の妨げになります。

また、そもそも事実から「~すべし」(=当為)は論理的に何のつながりもありません。
例えば次のような主張があったとします。
「飲酒運転が増えている。だから飲酒運転をした者にはもっと厳罰を科すべきだ」
でもこれは次のようにも言い換えられます。
「飲酒運転が増えている。だからアルコールを検出したらエンジンがかからないようにすべきだ」
要するに、「飲酒運転が増えている」という事実から、「飲酒運転の罰則を強化するべきである」
という当為“だけ”を特権的に導き出すことはできない、というわけです。
ですから経験に基づいて「~すべきだ!」と言うのは、論理的には間違った主張の仕方と言えます。

もうひとつは「問い方のマジック」に引っかからないこと。
問い方のマジックとは、「教育は子どものためにあるのか、それとも国のためにあるのか?」
といった二項対立の問いのことを指します。
私たちはしばしば、「どっち?」と訊かれるとあたかも「どちらかは正しい」
と錯覚してしまうけれども、この世に絶対の真理は存在しないのだから、
どちらかが絶対に正しいということはありません。
ディベートなどの意見の対立もそうです。どちらかが絶対に正しいということはまずありません。
そういう場合には、そもそも問いの立て方を変えてやりましょう。
例えば「教育はどのような場合において子どものためになり、
どのような場合において国のためになるのか?」といったような具合です。
「問い方のマジック」は、いわゆる思考実験などに多く隠されています。
哲学的思考のためには、そういう問題に直面したら問いそのものを正しく立て直す必要があります。

ふたつの注意点に共通しているのは、
あらゆる主張には、絶対に正しいものはないということです。
哲学では、帰謬法といって相手を打ち負かす技術も磨き上げてきました。
帰謬法を使えば、相手のどんな主張も否定し封じ込めることができます。
それは例えば「人それぞれ考え方は違う」「ときと場合によって違う」
「それって絶対絶対正しいの?」といったような使い方をします。
帰謬法で相手を封じ込めてしまえば、あらゆる主張は否定できてしまい話し合いは先に進みません。
ですからよりよい哲学的思考のために、哲学は帰謬法を封じ込める方法も長らく研究されてきました。

フッサールは考えました。あらゆるものを疑い尽くしても、ひとつだけ疑いようのないものがある。
それは、今自分が「感じてしまっている」というこの感覚(意識作用)。
懐疑主義に言わせれば、目の前のコップが実はコップかどうかなんて実は分からない。
それは幻かもしれないし、そもそも今コップを見ているのが夢の中かもしれない。
でも、それをコップであると感じてしまっている、確信してしまっている自分の意識は否定できない。

著者は、帰謬法さえも関与できない哲学的思考のすべての出発点は「欲望」にあると指摘します。
フッサールのいう意識作用というのは、突き詰めて考えれば欲望に基づいています。
つまり私たちは常に、欲望(関心)に応じて世界を認識しているというのです。

ですからよりよい哲学的思考のためには、
一般化のワナや問い方のマジックに気を付けながら論を展開していくとともに、
帰謬法でも否定できない「欲望」のレベルから思考を出発することが大事になってきます。
著者は、各人が持つ主張というのは信念に基づいており、
そしてその信念というのは欲望が姿を変えたものであると指摘します。
ですから信念が対立している現場においては、
まずは自分の信念は実は欲望のことなんだということを意識して、
お互いの欲望の妥当性をチェックするところから始まります。
このように自分の深くにある「欲望」を洞察し、それを交換し合うことによって、
物事の本質が見えてくることがあります。これを「本質観取」といい、
まさしく本質を捉えようとする哲学の本領なのです。

*  *  *

以上がこの本が言いたいことであろうことの大筋になります。
実はこの本は、2017年頃に何気なく買った
『哲学思考トレーニング』(伊勢田哲治、ちくま新書、2005年)
という本を読み終わったあと、哲学思考に興味を持って買ってみた一冊です。
なので自分としては源流は『哲学思考トレーニング』の方にあるのですが、
こちらは初読時に読書録が書けず、なかなか難しくて再読もままならないので、
さきにこっちの再読を終わらせてしまいました。

哲学的思考の入門書として妥当なのかどうかというのは、
他の本を読んでいない自分にはなんとも言い難いところはありますが、
一読者としては、「なるほど、これが哲学なのか!」と非常に腑に落ちた初めての本でした。
非常に説明力のある本だと思います。
そういう意味では哲学(物事の本質を捉える営み)に興味がある人には是非オススメしたいです。

本書ではあまりにも当たり前のことであるため言及されていませんが、
ここで紹介されている「」というのは、一人でやるものではありません。
本書の最も大事な部分であろう「本質観取」の具体的実践例も、
著者が提案する「超ディベート」も、「子どものための哲学(Philosophy for Children;p4c)」も、
基本的には自分の主張を聞いてくれる人がいなければ成り立ちません。
一人の体験に基づいて論を進めていくのはまさに「一般化のワナ」に陥ることに他なりません。
自分の意見を他人の意見かのように客観視することができれば
一人で論を進めていくことも不可能ではないように思いますが、それはあまりに非効率的です。
そういうわけで、哲学的な営みのためには、
自分の話を聞いてくれる仲間というのが不可欠なんだろうなぁと読んでいて思いました。

「一般化のワナ」や「問い方のマジック」は、自分たちの生活にも多く潜んでいます。
以前、前の会社で題材自由の発表会(ミーティング)を持ち回りでやっていた時期があって、
あるとき自分が担当の日に、この2つのことを紹介したことがありました。
すると社長がとても関心したようで、
しばらく連絡掲示板にこの二つのキーワードが掲示されていた時期がありました。
特に「一般化のワナ」は、独りよがりな考え方をする人ほど衝撃を受けるキーワードです。
自分もこれについては深く内省していこうと思わされたものです。

いまほど、一人では哲学的思考はできないというようなことを書きましたが、
自分はこの本は、自分なりの洞察を深めていくのにも非常に良いツールになると感じました。
自分はこれまでこのブログの“独り言”カテゴリに随筆を書くことを通して、
図らずも「不安とは何か?」「大人になることとは何か?」という洞察を深めてきました。
それはあくまでも自分なりの方法に過ぎなかったわけですが、
この本を読んだとき、とても強い味方を得たような気がして安心しました。
自分がやってきたことは、紛れもなく哲学だったのだと。
しかし、それをたった一人で考察していくのは少々効率が悪い。
どうしても「一般化のワナ」に陥りやすいからです。
本でも他人でもいいから、自分と一緒に本質観取をしてくれるような、
さらなる味方がいたら、自分の哲学はもっと発展していきそうな気がします。

この本は哲学的思考の出発点として、何度も繰り返し読んでいく価値がありそうです。

0

コメントを残す