#5885

嫉妬の話


独り言

未就学時代から現在に至るまで、さまざまな人と出会ってきた。
ネット上の人間関係を含めれば、ゆうに2000人は超えているだろう。
僕は彼らに知識や常識や価値観や自尊心や理性や感情や理想や現実を授けられ、
また時として利害関係の中でお互いに傷付け合ったり、あるいは尊敬し合ったりしてきた。
そして、他人とは何かという、そのつかみどころのない疑問の渦巻く人生の中において、
忘れ去られていく人の像は無意識の中に平均化していった。
自分に害をもたらさない99%以上の人たちは、そうして忘れ去られていった。
しかし、そんな様々な人の出会いを改めて指折り数えてみると、強烈に記憶にこびりつき、
どうしても僕がその存在を許容できないと感じる人たちが存在することに気付く。

探せばもっといるかもしれないが、僕が許容できない人というのは記憶の中には2人いる。
そしてその2人を並べてみると、ある共通点を抱えていることが分かる。
その共通点とは、自分と同世代であり、かつて独身であり、不器用であり、
そして不細工で不格好ながらも貪欲に恋愛活動をして、そして実を結んでいるということだ。
彼らが恋愛を成功させているという事実に、僕は耐えられない。

要するに、嫉妬である。

ここでいう嫉妬とは「やきもち」のことではない。
彼らや彼らの恋愛対象が自分も好きだから嫉妬しているということでは断じてない。
もっぱら成功者に対する負け組の「ねたみ」の感情を指している。
彼らの恋人がどういう人なのかはこの際どうでもよい。
だから恋愛にかぎらず、収入、趣味、社会的地位、あらゆる「成功」が嫉妬の対象になる。

僕は、基本的には向こうから挑発的にひけらかしてこないかぎりは、
恋人ができようが結婚しようがこの感情は湧き出てこない。しかし彼らは特別なのだ。
少なくとも素直に「おめでとう」とは言えそうにない。まったく子どもじみた感情である。
僕はこの感情がとても強い傾向があるので、なるべく他人の成功体験は聞かないようにしている。
自慢話をせずにいられないタイプの人とは、致命的に相性が悪い。

なぜ僕は嫉妬をしてしまうのかと内省してみると、見えてくる欲望がある。
言うまでもないことだが、彼らが達成していることは、紛れもなく僕も達成したいことなのだ。
「自分」が何を望んでいるのかは、嫉妬という感情を逆算することで明確に導くことができる。
恋人ができた人たちに強く嫉妬の感情を抱くということは、
つまり自分も喉から手が出るほど恋人がほしいのである。
異性という存在に認めてもらうことは人生の悲願でもある。
自尊心の手前、人前にはそういう素振りは見せないことにしているが、本心に嘘はつけない。

恋人がほしいのは間違いない。
しかし僕の中ではいまだに、自尊心との折り合いがついていないのである。
なりふり構わず、誰でもいいから恋愛をしたいとは思わない。でも恋人はほしい。
その矛盾をどう昇華すればいいのだろう。ここで思考が停止しているから次に進めない。
恋愛はしたいが、恋愛するために恋愛をしたいわけではない。
街コン、恋活アプリ、結婚相談所、相席居酒屋で相手を取り繕うのは、自尊心に反している。
学生時代歯牙にもかけていなかった異性とたまたま十数年ぶりに会ったからといって、
安易に付き合いたいと考えるのは、もっとあり得ない。人としてどうかと思う。
そんな自尊心があるから、そういった手段で恋人を作る人が許せないのである。
そんな自尊心があるから、僕自身はそういった手段で恋人を作るわけにはいかない。

と、自尊心は言い訳をする。
しかし実態はどうかというと、自分は何も行動せず、彼らは行動しているだけにすぎない。
彼らの代わりに僕が称賛されるべき理由はどこにもない。
嫉妬の原因はふたつある。ひとつは、自分の自尊心を否定したいのにできない場合。
もうひとつは、彼らを貶めないと、自分が努力していないことが浮き彫りになってしまう場合である。
恋愛に関して彼らに対する僕の感情は、この両方が当てはまる。
僕にとって彼らは、努力不足で至らない自分の立ち位置を思い出させる存在なのである。

自分は思い描いたゴールに向かってこんなに遠回りをしているのに、
自尊心を安易に捨ててショートカットを使う彼らはズルい。ルールに反している。
彼らが許されるなら自分もそのショートカットを使いたいけれど、ルールは破れない。
そんな困惑が嫉妬の中には含まれている。
ところがそのルールというのは世間一般的に普遍なものではなく、
自分が他人によって植え付けられた価値観によって作られた「自分ルール」に過ぎないのである。
自分の中にしかないルールだから、他人は知る由もない。
そんなことで嫉妬されて嫌われたところで、相手も困惑するばかりである。
相手からしてみれば自分は「面倒くさいヤツ」に過ぎない。

つまり、嫉妬という感情の矛先は、実は他人ではない。
真に否定したいのは「自分ルール」、または他人と共通して持っている自分自身の欠陥なのである。

「自分は遠回りしてでも少しでも理想に近い恋愛をする!」
という強い信念があれば、立場は変わらなくても彼らに嫉妬する必要性はまったくない。
なぜなら思い描くゴールが似て非なるからである。
嫉妬に染まってしまうのは、要するに自分の欲望に対して真剣でないからだ。
あわよくば自分もショートカットしてしまいたいという助平心があるから嫉妬するのである。
こと恋愛に関しては、年齢的に時間制限があるからなおさら焦る部分もあるのだろう。

恋愛とは、お互いに心の深いところを抉り取り、それを認め合う状態であるべきと僕は思う。
理想的異性像を相手に強要することではないし、自分の社会的ステータスを満たすことでもない。
そう信じているはずなのに、恋愛するために恋愛している人たちに嫉妬しているのは滑稽だ。
自分の信念を信じ切れていない中途半端さがある。
あるいは、僕は彼らに嫉妬することで自分自身の欠陥を思い出し、
自分が歩むべき道を再確認しているのかもしれない。

思い返せば、嫉妬のような負の感情はたいてい、勝手な思い込みを出発点にしている。
現実の他人ではなく、自分が思い描く他人に対して嫉妬しているのである。
僕が本当に知っているのは、彼らが街コンや結婚相談所で相手と出会ったところまでで、
なにも彼らが理想恋愛をしているという保障はどこにもない。
にも関わらず、「理想恋愛をしているかもしれないという可能性」に対して嫉妬は強く反応する。
現実の他人を深く知らないから、他人像を自分の中で補完しなければならないとき、
脳はなぜかもっとも不都合な形で他人を補完しようとし、他人を「敵」にしたがる。
これは悲観的な思考回路の「癖」と言うべきものなのだろうか。
こんなことでは他人と折り合いが付かないのは当たり前であり、
コミュニケーション能力不足以前の問題である。

自分の価値観から相対的に他人を計ることをやめて、
他人を自分とは異なる絶対的な存在として認めるためには、どうすればいいのだろう。
そこに嫉妬を乗り越える活路があるような気はしているが、糸口はまだ見えていない。
独身を受け入れられるかどうかは別にして、この問題は恋愛以前に一人の社会人として解決したい。

どうやら嫉妬は、自分の欠陥や願望を映す鏡のようなものらしい。
あるいは努力不足を警告するサイレンのようなものだろうか。
嫉妬は行動に対するきっかけに過ぎず、そのエネルギーはプラスにもマイナスにもなる。
もしもそれが本当に欲しい何かへと導く道標なのだとしたら、逃げずに向き合うべきは今である。

0

コメントを残す