#1075

新潟に居た思い出


独り言 自分


産声を上げたのは、新潟ではなく実は東京都内のある病院でだった。
僕は新潟出身の両親の間に生まれたが、最初は埼玉県で数年を過ごした。
保育園に行くときには既に新潟にいたことを覚えているから、
埼玉にいたのは本当に僅かだったのだろうが、当時の写真を見るかぎりでは、
それはもう今のとは比べものにならない、広い家だった。

親の仕事の関係で何度も引っ越しているから、おかげでよく昔の事を覚えている。
今覚えている限りを、忘れないうちにここに書いておくことに、決めた。

新潟にいた思い出の中で最も古ぼけたのが、新発田市にいた時だ。
最初幼稚園、次に保育園に行った記憶があるが、順序は定かではない。
とにかく両親が共働きだったため、生まれてまもなくから、小学校入学までは
どこかしらに預けられる日々が続いた。
保育園は物凄い坂道の上にあったこと、副園長が嫌な性格の女の先生だったこと、
保育園なのに廊下に立たされる児童がいたこと、帰り道に転んでケガをしたこと、
そのくらいしか覚えていない。
この頃の父は物凄く厳しかった。大体小学4年ごろまでは年1度は怒られていた。
ベッドに放り投げられたこともあるし、夜中に家の外に出されたのも、
保育園時代のことだ。自分が何をしたから怒られたとはっきり記憶しているのは、
この頃のものはまずない。あるとすれば、最後の1回ぐらいか・・。

いよいよ小学校に入学する、という辺りで、
僕は同じアパートに住む4歳ぐらい年上の女の子にいじめられた記憶がある。
その子には弟がいて、僕はその弟と同い年で仲が良かった。
今もなぜか、その年上の女の子に無理矢理勉強を教わるときの
相手の台詞は覚えている。おかげで入学前に、基本的なことは知ってしまった。
その姉弟の家に訪問した時が、僕がゲームというものに出会った瞬間だ。
思えばこのスーパーファミコンの「ぷよぷよ」は、
幼少時代の自分を象徴するかのようなタイトルになった。

小学校入学と同時に、今度は柏崎市に引っ越した。
この時の家は、隣りに同い年の男の子がいて、近くのアパートの高校生が散らかす
BB弾をお互い集めたり、向かいの女の子の家にカギを忘れた時よくお邪魔したりと、
他人とのつながりが増えた。記憶が曖昧だが、“ポケモン”に出会ったのは
多分この頃だったと思う。徒歩5分の所に家がある、同じくポケモン好きの友人とは、
転校までよく遊んでいた。

小学3年になるとまた引っ越す。
現在の家とは信濃川を隔てた向こう側にある。この頃から新潟市内在住ということになる。
ゲームボーイポケットを買い、「ぷよぷよ」や「ポケモン」にハマった。
ルーズリーフやファイルを買ってもらったのもこの頃だ。
薮蚊だらけの庭でよく遊んでいたが、次第にゲームというものに取り付かれていった。
この頃でゲームに関係して一番思い出深い事といえば・・。

当時の小学校――そういえばこの小学校も長い坂道の上にあった――から徒歩数分のところに、
親が夜遅くまで帰ってこない児童の遊び場になる場所があった。
そこには、屋外系の遊びはもちろん、
1000冊は超えるであろう「マンガ図書館」やのぼり綱まである体育館、
そしてテレビが備え付けてある部屋まであった。そのテレビには、スーファミが備え付けてあった。
僕がその存在を知る前までは、ゲームはガキ大将的存在とその仲間によって占領されていたが、
この施設、児童館の先生によって他の人も入れるようにしなさいと注意を受け、
その結果僕を含む数人が仲間に入ることになった。
最初「マリオカート」をしており、僕は負けっぱなしだった。
ところが「ぷよぷよ」になると、日ごろGB版でやり込んでいたこともあって、
負けることは滅多になかった。
そこで、そのガキ大将らしき人が僕の戦法にケチを付けてきた。
当時、そこのプレイヤー同士では通常の戦法ではつまらないため、
なるべく大連鎖になるような積み方をして、積み上がったら一斉に発動する、
という、勝負なのかただのお遊びなのか分からないが、それがローカルルールだった。
そこで僕が最初から2連鎖やら3連鎖やらをすると、連鎖の邪魔になるというのだ。
仕方なく相手のルールに乗っ取ってやってみると、
偶然7連鎖が出てその人はあっけなく最初にやられ、
いきなり泣きわめきだした。今や笑い話だが、
当時の僕はしてやったりと得意げになっていたものだった。
ちなみにそこでは右3段を埋め尽くして、その左下から崩して大連鎖を狙う積み方が流行っていた。

小学5年になるとまた引っ越して、これが今住んでいる家となる。
埼玉県在住の記憶にない記憶を除けば、今までで一番洋風らしくていい家だったが、
この頃はすでに弟が4人いて7人家族になってしまったため、
ある意味一番狭い家なのかもしれない。
転校した年は、これもまた近くの家の同じクラスの人と仲良くなって、よく遊んでいた。
もう1人、積極的だがクラスの嫌われ者だった人とよく喋っていた記憶がある。
ほとんど相手からしか話し掛けられてなかったような気もするが、
ともかく家に遊びに行ったのはその人が一番だった。
この頃は気まぐれにハムスターを飼いたくなって、親の賛同もありつがいで飼っていた。
よく遊びに行っていたその人もハムスターが好きになって、
こっちとしてははた迷惑な行為に走ってくれたものだ。
この頃にはすでに親によって友達を家の中に入れることを禁止されていたのに、
無理矢理入ってきたり、子供を生んでまだ1週間だというのにそれを見たいと聞かなかったり。
後に子供を1匹譲ってやった以後は大人しくなったが。
ちなみにハムスターには、名前の案が浮かばずに適当に付けた。たしか・・餅に関連した言葉だ。
最初に飼った母親は12匹もの子供を生んでしまい、引き取り手に困った。
9匹はなんとか引き取ってもらい、残った子供3匹を家で飼うことに決め、
5匹の家族を世話することになった。
後の3年後前後に次々に死んでしまい、一番可愛がっていた母親が死んだ時には泣いた記憶がある。
その時は、ペットなんていうものは飼って、
可愛がってもその分死んだ時に悲しい思いをするのだから、
将来は絶対にペットは飼うまい、と心に決めていた。
しかし後の2005年、母が犬を飼う事になる。

小学6年に、つい最近まで会っていたW君と会った。
彼から、任天堂一線の僕にプレステの面白さを教えてもらい、この年の5月に買ってはみたものの、
後のゲームキューブ発売の頃にはさっぱりやらなくなった。
高校時代、PS2を持ってないと言って何度驚かれたことか。

中学生になる。はっきり言って、この3年間は現在までの18年間で最も嫌な3年間だっただけに、
それに何度も書いているし、あまり書きたくないという気持ちが強い。
いじめられていた・・というよりあれは単なる嫌がらせか、
1人の男子に嫌な思いをした事はあるが、
それを超越したのが、当時の友人3人が人の目を気にしないアホな性格だった為、
それに巻き込まれた自分共々周りから隔離された事だった。
別に真の意味で“隔離”されたわけではないが、
とにかく他のグループの輪に入れなくなっていたのは確かだ。
一部の人とは普通に話をしていたものの、これ以上暗い学校生活もなかった。
クラスという単位で行動する行事が大嫌いだった。
3年の夏休みにパソコンを入手(といっても、本当は親が仕事用に買ってきたもの)して、
その10日後にブログを開設することになるが、当時の日記の文章力のなさ、内容のつまらなさは、
今あるつまらない記事を遥かに凌ぐ。

右も左も分からない高校入試は、親に薦められた高校の専願を受けて高校生になる。
ここから先は、卒業当時の日記に任せることにする。
とにかく楽しい1年間+2年間だった。特に後者は、一生忘れられないだろう。
中学校の時に味わった、人間関係の断絶という恐怖に怯える自分を受け入れてくれたクラスの人達。
夢を探すきっかけを多く作ってくれた、3年間担任だったK先生など、
感謝しても足りないような人物が多過ぎる3年間だった。

そして今僕は、長く居続けたこの新潟を離れようとしている。
金沢という新天地に行こうとしている。
いまさら別れというものを惜しんでも仕方がない。
むしろ、騒がしい弟から離れられるという点では非常に嬉しい。
しかし、方や両親から離れるのは不安で不安で仕方がない。
その矛盾した微妙な気持ちで、この春休みを過ごしてきた。

僕は、何度となく、弟それぞれに愛想が尽きて、もし両親と別れるときが来たら、
何故こんなに子供を産もうと思ったのか、その無計画さを指摘したいと思っていた。
自分の未熟で見苦しかった部分だけ模倣して育っていく弟が、無性に腹立たしかった。
もしも自分が将来親になるなら、絶対に2人目は産まない。そう心に誓っていたものだ。
親にも未熟な部分を見出した事があり、自分だったらそうはしないと考えた事が何度もある。
しかし結局勝るのは親だ。僕は、弟がいないなら、本当は犬と両親とでずっと新潟にいたい。
けれど僕が現実でそれを実行したら、おそらくほぼ確実に弟もそれに倣うだろう。
そんなことをしたら、この家が無事に存続するわけがない。
だから中学時代の終わりまで父が言い続けていた、
大学進学の時には家を出て行ってもらうという方針を、
――受験前後では自分の未熟さを見てか、真逆の事を言っていたが――
受け入れて、出て行くことにした。
ここで出て行かないと一生大人になれないと思った。

人を羨ましいと思って、自分もそれを実践してみたいと思っても、金銭面や弟の目があって、
実行出来ないことが何度もあった。夢を見るとしたら、これからだ。

このブログは一度、荒らされた先代の上に立って動いている。
だからこそ、念願の10万アクセスも達成したし、その他色々進歩できた点もあった。
これからの自分も、同じように、この新潟で過ごしてきた事、
特に失敗を糧に成長できればいいと思う。
18年間分の教訓が、それ以上のものを生み出せると信じている。
そして今、こうして境に立ってみると、改めて“大人”というものの凄さを感じる。
子供と言う時代を乗り越えて、
そこで得たもの、失ったものを元にして、現状を判断する材料にできる。
これからは、自分はできるかわからないが、周りにはそういう人たちが増えていくのだろう。
そんな脱皮の繰り返しで、人はできることが増えていく。
いや、別の意味では出来ないことも増えていくが・・。
昔はその後者を重視していた。老いた者が好きではなかった。
しかしよく考えてみればそうもいかない。
彼らがギリギリ繋いでくれたものを受け継がないわけにはいかない。
ともかく、親許を離れるという、大きな試練――という、脱皮を今しようとしている。

18歳のさなぎは、桜の咲く季節に一斉に飛び立つ。
ここで怠けるわけには、いかない。

僕は細かい事をなしにすれば、表面上は漸く1人の人間として生まれ、旅立たざるを得なくなった。
子どもの頃はトラックの荷台から延々と伸びる轍を見てきた。

今、まさに自分自身でのみこの世界に。
一歩目の足跡を付けようとしている。

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