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金沢発最初の帰省 #4


今日の出来事 独り言 自分


4日目もあっという間に終わった。
最終日は無駄に過ごすまいとアラームをセットしてはみたが、
結局設定時間の2時間後に起床した。

退屈な春休み。
起きても何をする気も起きず、という日が断続していた60日以上の連休だった。
それを思い出させる生活リズムが1か月を経て戻ってきた。
そんなゴールデンウイークだった。

なんといっても4日間で一番の思い出は食事だ。
家ではそうとう昔から休日昼食は父がラーメンを作ることになっている。
実家に住んでいるときは、たまにそれに飽きてしまい
またか、と思うこともあったが、今はそんな自分を殴りたいと思うほど、
父特製のラーメンがおいしかった。さすがに作り慣れていて、
そこらのラーメン屋に匹敵するおいしさがある。と僕は思っている。
学食の240円のラーメンなんて――失礼だが――到底かなわない。
父のラーメンは帰省の大きな楽しみと変身した。

もうひとつ、言うまでもなく夕食もとてつもなく豪華だった。
1日目が手巻き寿司、2日目がカレー、3日目が焼肉。
なんとなくお子様向けっぽいのは置いておくとしても、僕はそれらを夢中で平らげた。
この4日間でいったい一人暮らし何日分の量を食べたか知れない。
1日目は手を止めずに6合の酢飯のうちかなりの割合を自分の胃に放り込んだし、
2日目は無理としって大盛り2杯を詰め込んだり、
3日目は炊飯ジャーが空になるまで御飯をおかわりした。
遠慮すると失礼な気がしたし、何よりこんなにも大量な食事は滅多にない自分にとっては
暴走せずにいられなかった。

食事以外の面では完全に“いつもの休み”と同じだった。
適当にテレビゲームをして過ごす。いつの間にか夜になっている。
今日も大体それで終わった。
騒がしい家の中に溶け込んでいる自分。いつもこれで苛立っていた。
今は立場上は、苛立つよりも懐かしさがこみ上げた。
弟達の身分にある幸せを羨んだ。

18時14分、新潟駅から金沢行きの電車が出る。
僕が電車に乗ったのは5年前が最後だったのでかなり不安だったが、
帰らないわけにもいかないので支度をして出発した。
玄関に行くと母はテレビゲームに夢中の弟たちに出迎えるように仕向けたが
「どうせ夏に会えるし」
と彼らは無愛想にそのまま動かなかった。
言おうとしたことを先に言われてしまった僕は玄関から振り返らず車に乗り込んだ。

――それは、本当に無愛想の意味で発するつもりだった言葉だ。
別に裏返すと感動を与えるような言葉になるような意味を込めたつもりもない。
しかし僕は車に乗って自分が言葉を発する必要のなくなった瞬間、
なぜだか少しだけ泣きたくなった。だけどそれを表に出すわけにはいかない。

新潟駅は人だらけだった。
巨大な駐車場がほとんどあいておらず、とりあえず父が車を停めることにして
母と僕は先に改札口前に行くことにした。
西口前に着いた。が、数分経っても父が後から来ない。
改札口を間違えたかと母が父を探しに行った。僕はここにいるようにと言われ、
近くにあった時刻表を眺めていること数分。母が一旦帰ってきて、
どこにもいないという。予定時刻の18時14分は過ぎてしまった。
ケータイを持ってこなかった両親が電話ボックス、僕のケータイ、自宅間をうまく使って
なんとか連絡をとり、3人が再集合してどうするかを両親が話し合っていた。
結論は、1時間高速を走り直江津から出る電車に乗るというもの。
かなりギリギリで、時刻の再確認を車の中でしたり、駅到着後は走ったりと忙しかった。
改札口を抜けるとそこは人気のないホームだった。
“6号車”と書かれたところに何人かの人が列を作っている。
それが自分の該当する号車と同じだということを把握すると、僕もその後ろについた。
やがて電車が到着する。中から15人ほどの人が出てきて、
続いて列が動き出す。

「じゃあね」
ふとそばにいた母がつぶやくように言った。

――こうなることは予想していたはずだ。その時に言う言葉も用意していた。
けれど、僕にはそれをとっさに口に出すことはできなかった。
一瞬振り返って言われた言葉と同じセリフをつぶやくことしかできなかった。
また別れなければいけないという重荷がこうさせたのか。
僕は少し涙目で、両親を背に特急電車に乗った。
空いた席を探して、窓際に座っていた人に一声かけてから座る。
その時の僕の声は自分でも驚くほどかすれていた。
発車してから、この号車が喫煙車であることを知る。
どうやら隣の7号車に行けば同じ自由席で禁煙らしい。そこに行くべきだと思った。
しかし、僕はうつむいたまま動けなかった。

ある程度自分が弱い人間だということは自覚している。
なのにゴールデンウイークという短い連休の帰省が終わった程度で
また泣くとは昨日まで全く想像していなかった。
さすがにこれには情けない気がした。歯をくいしばって涙を止めてみようとしたが、
一向に止まらず、むしろ自分が泣いているという自覚――
つまり孤独感というものの再認識をしてしまう度に、涙腺から涙が押し出されてくる。
僕はこんなにも情けない人間だったんだ、と改めて思った。
電車が富山に到着するまで、僕は動けなかった。

なんとか搭乗から2時間後の金沢到着頃には精神も安定してきて、
降りた後から駅を出るまでも不安といえば不安だったが難なく突破した。
あとはバスに乗れるか、大金をはたいてタクシーに乗るかだが、
直江津駅内のエスカレーターに乗っているとき実はこの時の為に
母からタクシー代をもらっていた。電車の到着時間とバスの出発時間の感覚が
3分しかないため、そっちは無理だと思ったのだろう、そしてそれは正しかった。
金沢駅には行ったことはないが、比較的迷わずにバス停に着いたものの、
2分オーバーでその後5分待ってもバスは来なかった。
妥協してタクシーを頼んだ。これも初経験だがとやかく言っている場合ではない。
幸い人のいい運転手で、自宅前まで飛ばしてくれた。
2000円以上というバスに比べれば暴利の金額だが、運賃を払ってタクシーを出る。
アパートの鍵をポケットから取り出した。
そうして4日間の僕のはじめての帰省は終わった。
帰宅後、夕食はたくさんあるのだが、夕食作りを含め何もする気にはなれなかった。
覚えのある空腹感が、珍しく今、夜に浮かんでいる。

1日目、親が高速4時間を経て迎えに来た時に、食料品をかなり持ってきてくれていた。
帰宅後改めて勘定してみると、飲み物が11リットル分、冷凍食品がおよそ8袋、
レトルト食品が19箱、味噌汁のもとが14袋、
粉末調整ココアの類が3袋、そして祖父母自家製のコシヒカリが10kg。
そのうえ仕送り50000円を少し前にもらっている。
今回の帰省の行き帰りにも数万円、服を買うのにまた数万円、
僕は過保護すぎるといえるほどの恩恵を両親から受けている。
そうしてくれないと何もできない。
子どもというのはなんと無力な生き物だろう。
僕は一応大人とそれの境目にまだいる。比較的大人よりの年齢だが、
それでもこれらの恩恵なしにはまだ生きていける気がしない。

父母が何も言わず手を差し伸べてくれるのを、遠慮することができない。
無力な自分が悔しくて歯がゆくてたまらない。
親不孝はしてきたのに親孝行ができないという時期にあるのが忌々しくてしょうがない。
帰省のとき、弟のうち1人が少しだけ父に反抗的態度のようなものを示していた。
父は何も言わなかった。
僕も愚かなその弟に何も言わなかった(最近コミュニケーションがないという点もある)。
自分が独り立ちして自分の愚かさに気がついた時、思う存分悔やめばいい。

僕が何も言わなかったのは、言うまでもなく自分もかつては同類だったからだ。
ハッキリと親に反抗を示したことはないが、しかしずいぶん蔭では歯向かってきた。
親を不幸せにする子ほど愚かな時期はない。それが将来転化してくれるものなら、
親という立場は辛いものだと思う。転化しないまま大人になる人間はこの世にいなくていい。
僕が今一番嫌いなのはそういう人種かもしれない。

ともあれ、今僕は間違いなく転化していい方向に向けなければならないという時期に
差し掛かっているのだと思う。
与えられたものをせめてフルかそれ以上に使っていく努力をしていきたい。
いつか恩恵を返すことができるのを夢見ながら、不安な日々を過ごす。

独りの日々がまた明日から始まっていく。
切羽詰ったのが馬鹿みたいな実家での生活からかけ離れた狂おしく忙しい日々が。

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