#1720

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独り言 自分


“大人”というものに対してのステレオタイプは、
これまで何度も表裏といった関係で変化してきた。
中学生時代よりも前は、“何だか分からないけれど大きくて凄い人”。
中学生時代から高校1年くらいまでは“あらゆる面で凄いけど子供のような活気の無い人”。
高校時代の後半は“子供が束になっても叶わない巨大な人”。
大学時代最初は“いわゆる子供の延長線”。

そんな風に想像していて、いつか自分がなる時が想像できないと、よく思ったものだが、
非常に残念ながら、その想像の外にあった“大人の自分”が今ここにいる。

18歳になった時も思ったことだが、
いざこういう境目の歳になってみても、周りに劇的な変化があるわけでもなく、
もちろん自分が育成ゲームのキャラクターみたいに脱皮するというわけでもない。
大人と言いつつも、4年制大学ならまだあと2年間は社会的には子供扱いだ。
20という境界線は、誰かが勝手に決めたものでしかない。

自分個人の話をすれば、一応内面的進歩はしているようにも見える。
それこそ、いわば趣味の起点の年の2004年や2005年の自分には大きく劣るが、
それでも今年一年という年が無かったことになって2007年12月08日に逆戻りしたら、
そこには2008年現在の自分にとって、非常に痛ましくて愚かしい自分がいるだろう。
これを20回経験していないのが子供で、それ以外が大人だと考えると、
大人になった自覚のない自分は、
おそらく1回分に満たない成長だった年が何回かあったのではないかと思う。
しかし、かといってその“1回分”が明確にどれほどなのか、
文科省が公布して全員がそれを目指しているというようなものでもなく、
自分自身で、これをもって大人に足るものとしようと思えばそれでいい話なのだ。
大人というのは、それだけ曖昧なものなのではないか、と思う。
他の同世代と比べて良識のある幼い子供を指して大人だとも言えてしまうのだから、
そう考えると本当に今自分が書いているような“今日から大人です。”的な考え方は
意味があるのかと考えてしまう。

自分はどちらかというと、色々な面で理想の高いタイプの人間だと思う。
実現できるかはどうかは別として、理想の自分というものが常に重なり合っている。
それをさりげなく表沙汰にしようとして、
実際には挙動不審になっている面もあるんじゃないかとここ2年で考えるようにもなった。
そういうことを考えるたびに、そういうことを意識していなかった一人暮らし前の自分が
非常に愚かしかったのではないか、と恥ずかしい気持ちになる。
しかし仮にこの“理想の自分”がいわゆるひとつの“大人”だとしたら、
そういう意味では曲がりなりにも
大人に近づいている自分の影がそこにあるとも言えるようにも思う。

そう考えると、大人というものは年齢的・精神的な境界線だとか、
人格のレベルだとかそんな大それたものではなく、
各個人が思い描く単なる目標や理想のひとつなのかもしれない。

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