#2179

謙虚な就活生


人の存在や人の行動、それ自体が間違っている事はそうそうないと思う。
それ自体を否定することは難しいと思う。
ただ、“謙虚”であることだけは罪だと思う。
“謙虚”な人間はそれだけで罪を犯しているように思う。

僕は就活というものを意識し始めてから、ひいては大学生になってから、謙虚になった。
自分の思考を、得体の知れないものが取り囲っている事に気がついた。
――どんな事を考えようとも、それは「自分が謙虚だから」
と言われてしまうと反論できないようになってしまった。

民間だろうが公務員だろうが、希望するところに就職して働いている自分を考えると、
とても場違いな気がしてくる。自分がこんなところにいていいのかと思えてくる。
ハードルを下げると、今度は大学のような職場のように思えてきて、
このまま平凡に一生が終わるかもしれないというイメージが湧いてきて絶望する。
そもそも内定を取る自分が全くイメージできない。
未来は真っ暗だ、それなら過去はどうだと振り返る。
面接で自慢できそうな事は何もやっていない事に気が付く。
これらはどれもこれも単なる思い込みなのかもしれないが、
自分にはそれが現実であるかのように見える。
何故なら、自分の目の前には“謙虚”というフィルターが貼ってあるから。

進んで駄目な人間になったつもりはなかった。
ただ好きな事をやって、結構楽しい時代を過ごしてきたと思っていた。
いつからなんだろう、こんな気持ちになったのは。
いつからなんだろう、こんなに他人と差が開いてしまったのは……。

高校時代の自分と今の自分を比べると、多分物事を処理するスキルは今の方が上だと思う。
もちろん体力その他の問題はあろうが、コミュニケーション能力だってそうだ。
友人のいた高校時代に比べても随分まともになったと思う。
この一年間で幾度となくあったゼミ発表だって、
最初こそ散々指摘された発表態度も、最後にはそれなりにまともになったと思う。
教授に直接褒められこそしなかったが、
少なくとも自分で後悔しなかっただけの進歩はあった。
小中高校時代は、自己紹介など緊張する場面では決まって後悔したものだ。
こういう風に、「一応進歩した」と自称する自分はある程度正しい。
ただ、その進歩の度合いがどうやら他人と比べて小さすぎるようだ。

ささやかなところでこだわる癖を持っている。
好きなものはとことんまで好きになる方だ。
ゲームにハマったらハイスコアを更新しないと気が済まない。
本を買ったら隅々まで読まないと気が済まない。おかわりをしたら絶対に残さない。
趣味のない人の気持ちが分からない。趣味にこだわらない人の気持ちも分からない。
こんな自分を前向きに受け入れてきた18年間が通り過ぎた。
その方向性が間違っていた事を認めるのは難しいと思う。
それが好きだからと言って他の事に見向きをしなくてもいいのは芸術家だけだ。
ひとつの事に打ち込む事すらしてこなかった自分がそれを名乗る権利はない。
何故打ち込むことができなかったのかというと、やっぱりそれも謙虚だからだと思う。

たまにその“謙虚”に真っ向から出くわすことがある。
相変わらずネットサーフィンをしていると、
自分が本当に好きな分野についての言葉を見つけたり、思い浮かべたりする。
一瞬、ものすごい意欲が身体の内から湧いてきて、さっそく検索でもしてみようと思うと、
とっさにその“謙虚”が身体のどこかから出てくる。
「それは不完全な今の自分が調べる事なのか?」
「その分野の現実を知るのは怖くないか?」
気がつけば何もしないでその一日が終わっている。
だから僕はいつも“二番目くらいに興味があること”は遠慮なく情報収集してきたが、
家族にも話さない創作趣味についてはほとんど無知と言っていい程度の知識しかない。
これに限らず、“二番目に好き”な事に対してはある程度遠慮なく暴露できる。
でも、これこそが自分自身と言えるような“本当に好き”な事は、
絶対に他人に汚されまいと心底から思って外には出さないようにしている。

もっと些細な例で言えば、例えば昼夜逆転が酷くてたまらずに書店に出かけたとする。
ネットで漁った情報をもとに決めた購入候補のタイトルをまず探す事になるのだが、
作者名や文庫名も見ずに半分ぐらいまでざっと棚の端から背表紙を眺めたところで、
ふとそこに店内の書籍検索ができるタッチパネル式のモニタがある事に気が付く。
それで検索するのがどう考えても候補を探すのに最良の手段だと自分でも分かるわけだが、
なんとなく非効率承知で背表紙を眺め続けていたくなる。
あの感覚は一体なんなのだろう。
僕はこれこそが自分の中に巣食う“謙虚”な心だと思ってきた。
それはもう少年時代からずっと住み着いている。
これこそが自分なんじゃないかと思った時もある。
こだわる事を正しいと思う、自分の知らないモノに対して
“謙虚”になる自分自身を肯定していた時代が自分の中にはある。

その“謙虚”は無知と相互関係にあると思う。
その分野のことを知らないから謙虚になり、謙虚になるからその分野のことを知らない。
こだわって謙虚になっていた自分は、界隈を見わたせば無知だらけだ。
人は知識のある人を褒め称えるし、知識のない人を見下す。
それは“謙虚”であることが愚かであることの証明に他ならないと思う。

ここでいう“謙虚”は、いい意味で用いられる謙虚とは少し違う。
もっとそれらしい言葉は沢山あるだろうが、
どういうわけか(多分無知な為に)僕は昔からこの心の事を謙虚な心と呼んでいた。
大昔に先生か誰かにそう言われたからかもしれない。
小中高とクラスを眺めていて、謙虚に見える人達とそうでない人達がいた。
昔は謙虚じゃない人達は愚かだなぁと思っていたものだ。

人の器量は、自分の欲望に応える行動ができるかどうかにあると思う。
それが社会に善と言われようが悪と言われようが、
欲望に正直に突き進んだ人は“大きいな”と思わせる何かを持っている。
自分も結構野望の大きな人間だと自分で思い込んでいたが、
そうなると行動力のない自分の欲望も大したことがないのではないかと思う。
こう考えるのも結局無知故なのか……。

あわよくば、今年はその謙虚な気持ちを捨て去ってしまいたいと最近思っている。
世の中にはもっと面白そうな事が沢山転がっている気がする。
今まで謙虚になっていた分、まだ触れていない面白いことが沢山あるはずだ。
背表紙を眺めていたいと思ったのは、偶然でも知らない何かに会いたいという
前向きな気持ちの表れなのかもしれない。
こんな風に、稀にポジティブにもなれたりするのだが、
しかし就活というのは現時点では自分を真っ向から全否定するものであり、
それが例え思い込みだったとしても、立ちはだかる壁はまだ超えられそうにないのが現状だ。
社会が自分を嫌っているなどという考え方は幼稚だと言われそうだが、
今まで培ってきた自分というものが社会に適合しなさそうなのは事実のような気がする。
こんな風に、謙虚な趣味を広げようと思っている一方で、
現実という世界ではまだ踞って動けない自分がいる。
違いはなんだろう、と考えると、
それは無知である中でも特に“他人”を知らないからだという結論に至る。
やっぱり僕は三年間で人のぬくもりから遠ざかりすぎた。
愛と勇気だけが友達じゃ、この世は生きていけない。