#2480

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独り言 自分


――ものを知らないという事は、つまらない。
例えば何か、曲がりなりにも積み上げたものを持っていたとして、
それをまだほとんど知らなかった頃の自分の事を思う。
ああ、なんて無知なんだろう。なんてつまらないものにすがりついていたんだろう。
何故あれを知らなかったのだろう。なんて視野が狭いんだろう。
その地点から紆余曲折あって今に至る道を振り返り、
その積み重ねがとてもいとおしくなる。
これからもこの分野について知って行こうと思う。まだまだこれは旅の途中だ。

――ものを知っているという事は、つまらない。
こんな事ができてしまうのか、という衝撃。まったく自分の頭の中になかった世界。
そういったものが日々飛び込んでくる日常を失って何年も経った。
どんなものも、ああこういう展開で終わるんだな、とどこか冷めた目で見てしまう。
楽しもうとしている心が引きつっているのを感じる事がよくある。
膨大に積もり積もったものから選りすぐりの精鋭を引っ張り出して楽しんでみても、
どこかお腹がふくれない感覚が拭えないでいる。
ああ、なぜ僕はあんなに好きだったものに飽きてしまったんだろう。
あの新鮮味をもう一度味わいたい。けれどそれを経験するのはもう難しそうだ。
少なくとも、この旅路はすでに終わっている気がする。
束の間の新鮮味を味わうためには、全く別の道に沿う必要がある。

今まで僕は、誕生日という境界線に関して何か考えるときに、
“成長”というキーワードを常に据えていた。
2005年は成長できたとか、2007年は成長できなかったとか、
分相応だとか分相応じゃないといったような事ばかり考えていた。
2008年以後は、“大人”という言葉についてもよく考えた。
それは目標なのか、目的なのか、信念なのか、理想なのか、幻影なのか……。
今でもその答えは見つからない。一応身体的には大人らしいのだが、その自覚もあまりない。
22歳になるこの機会にまたいろいろ考えてみてもそれらしいものは見当たらなかったが、
ふと、“ものを知っているのが大人、ものを知らないのが子供”
という考えに行き着いた。

“子供心”という言葉には、なんとなく淡い色のイメージがある。
未発達で無知なところから、まず何かをやってみよう、という勢いのある冒険心。
それが例え悪戯心であっても、せいぜい青紫色ぐらいのイメージでどす黒くはならない。
今の自分の「何かをやってみよう」という言葉にはそういうものが感じられず、
すぐに脇から「それは迷走だ」という野次が飛んでくる。
悪戯心を思いつく事はないが、代わりに真っ黒なネガティブ思考が張り付くようになった。
こんな風に、明らかに子供心を失った気がするのに、
僕は無知ではないというわけではない。むしろ、無知過ぎて困っているくらいだ。
昔はこんな事を自覚する事がなかったから、
これは子供の頃の無知とは違う種類のものなのかもしれない。
あるいは“無知を知らない”のが子供なのか。
ものを知らないが無知は知っている今の自分は、大人でも子供でもないのか。
そういうものの事をなんと呼べばいいのだろう。

僕は、誰に指摘されるまでもなく、とてつもなくネガティブな方の人間だ。
それでも、曲がりなりにも何かを知りたいと思う、
ひいては大人になりたいという気持ちは日々脈々と受け継いできたつもりではある。
もしかすると、ものを知らないという事は楽しいのかもしれない。
ものを知るという事は楽しいのかもしれない。
そんな気持ちになる事もたまにある。
“理想の自分”を手にしたら毎日が楽しくなりそうな気はする。
あるいは、大人になりたい人々はただそれだけを目指しているのかもしれない。

僕は今まで、そういうものを大人の自分と据えていた一方で、
どこかで“常識的な大人”にならなければならないという責務を感じていた節がある。
常識に捕らわれるとはこういう事なのだろうか。
“常識的な大人”に対する偏見に対して好意的になれない自分は、
いつも子供に戻りたいとばかり言っていた。
それは、言ってみれば子供の頃に描いたいろんなものを捨ててしまおうという表れでもある。
こう考えてみると、ネガティブ思考の無意味さがよく分かるような気がする。

それでも、そのネガティブ時代を全否定できない悲しさ。すぐには変われない現実。
僕が本当の大人へと向かうのは、いつになることやら。

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