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独り言 自分


この世に生きている人には、その人なりの世界観があって、
それらは不幸だろうが、卑屈だろうが、どれも成り立っている。
現実というのは一つではなくて、実は個人の世界観を通して見ている、
沢山の中のひとつに過ぎないのかもしれない。
世界観の数だけ何重にもなっている、透明な液晶画面のようなものなのかもしれない。
では、“自分”という存在は、どういう世界観を持っているのだろう、と考えると、
それはきっと自分がどこかで選り好みしているのだろう、というところに行き着く。
それは社会の中で何度か、とても分かりやすい形で目の前に立ち塞がった。
高校なら学科の選択、大学受験の学部の選択、
そして結局自分はちゃんとした経験はしなかったが、
いわゆる就活もこれに当てはまると思う。
「あなたの好きなものは、なんですか?」
と聞かれて、まじりっけなしの気持ちで答えられる人は将来が明るいのだろうと思う。
僕はここ半ヶ月ほど、人は結局「好き」という感情を元に動いていて、
それはもしかすると“自分”の意志ではどうにもならないのではないか、と考えていた。
秋以降深刻化したブログの存続問題も、まさに昨日修羅場となった修論の事も、
先日書いた音楽趣味の話も、すべてこの何かを好きだと思う気持ちが
解決の糸口であり、それがないことだけが問題になっているような気がする。

先述の質問に答えようとする事を考えたとき、
その選択肢は当然ながら“自分が知っているもの”の中から選ぶ事になる。
自分が「好き」なもの、つまり原動力となるものは、
自分の知らないものではあり得ない。
今までに知識を吸収する事を怠っていると、少ない選択肢の中から選ばなくてはならず、
学部選択など時間制限のある機会にそういう局面に出くわすと、
最後の手段として自分の「好き」という感情を押し殺して嘘を付いてしまいがちだ。
嘘とまでいかなくても、「きっとこれなら好きになれるだろう」
という足下の覚束ない選択を余儀なくされる事があると思う。
少なくとも僕は、学部選択に関して言えばそうだった。

この事は、逆に言えば、いろいろなものを知っていればそれだけ
自分の本音の通りに選択できる可能性が高まるという事でもある。
小中高とやらされてきた勉強というものは
多分その可能性を増やすためにあったのだろうし、
今の自分が義務教育をやり直せるのなら
「好きなもの」を探すために勉強したいと考える。
頭がいいと言われる人と、そうでない人の違いは、才能などを除けば
「やりたいと思っている」か「やらされていると思っている」
かの違いなのかもしれない、と最近よく考えている。
少なくとも、論文を書いている自分と同じ境遇の人達を眺めているとよく感じる。

ところで、可能性がある程度の量まで達した時(あるいは量が少なくても)、
それを選択するのは紛れもなく“自分”だが、一体“自分”は何を基準にしているのか。
僕は、音楽趣味についてこういう事を考えながら音楽を聴いていると、
人が好きになりうる範囲というのは、最初から決まっているような気がしてくる。
曲単位を延々聴く人、アーティスト単位で聴く人、ジャンル単位で聴く人、
人それぞれ好きなものには幅があって、
それがその人の器量ないし“好きなものを選択した結果”だと思う。
“自分”が好きなものを選ぶ基準には、
それまで生きてきた中での環境やそれを作ってきた偶然が大きく関わっていると思う。
しかし、その環境もおそらくは“好き”という感情の集合体に過ぎないだろう。
自分の場合で言えば、ゲームサントラなど電子音楽が好きなのは、
おそらく昔ゲームでそういう音楽を聴いた事による
いわゆる思い出補正のようなものが原因のひとつのようにあると思う。
そのゲームも、大昔どこかで知ったから好きになったのだろう。
ゲームと出会う前から、デジタル時計のような機械が好きだったような記憶もあり、
それがもしかすると今の趣味に繋がっているのかもしれない。
……と、自分史を遡っていくと、またしても自分が生まれた時という
自分ではどうしようもない地点に行き着いてしまう。
そこに、生まれてから現在までの環境や運を継ぎ足したものが
“自分”が好きなものを選ぶ基準であり、
その積み重ねが“自分”が持つ世界観なのかもしれない。

仮に、そういったどうしようもないものによって好きなものを選ぶとなった時、
自分は果たしてそれに抵抗しうるのかどうか、と考えると、
まずは「嘘を付く」という事を思いつく。他人などいろいろな外の要因によって
好きなものを正直に好きと言えない状況には、ろくな事がない。
もうひとつ、「選択肢以外のものを選びたい」という感情が現れる可能性がある。
いわゆる好奇心というものは、得体の知れないものに対して
先入観を美化するような、ポジティブな気持ちがないと生まれないのだと思う。
それは子供心を持っていたら必ず持っているし、
それはある意味、好きになる可能性の限界を打ち破るひとつの武器なのかもしれない。
子供の頃がなんとなく楽しかったのは、好きという感情に積み重ねがないから
知らないものもひっくるめて全て好きだと思い込むほど、
この好奇心が強かったためなのかもしれない。
肉体年齢が大人になって以後は、好きなものを見つけないといけないという焦りから、
自分自身で楽しむためのハードルを上げてしまった感がある。

23歳になった。
この年齢は果たして好きなものの幅を広げようとする事が許される年齢なのか、
あるいはもう好きなものを確定して、次のステップに行くべき年齢なのか、
年齢について考え始めると、どうしてもそういう事を考え始めてしまうのが
少し不甲斐なくもあるが、それもひっくるめて“自分”なのだろうと思う。
今までの自分の歴史がどうであれ、結局人はまず、
“自分”を肯定しないと何も進まないし、
自分は現に“自分”を肯定できなかったからこそ足踏みしてきた時間が多々ある。
もう冗談でも「子供です」と言えなくなってきているこの時代、
せめて自分を肯定さえできれば……とつくづく思う。
本当に芯から「好きだ」と思えるものに出会ったら、きっと幸せだろうから。

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