#2948

恋愛観の自分史


今日の出来事 自分


春休み32日目。

22時頃、音楽を聴きながら、例の動画のエンコード終了を待ちながら、
教授のお手伝い名目のバイトとして資料をスキャンニングする作業をしながら、
AndroidからTwitterのタイムラインを追いかけていたら
突然知らない番号から電話がかかってきました。
おそるおそる応答してみると、泥酔した祖父でした。
どうやら間違い電話だったようなのですが、完全に酔っ払っているみたいで
何故かそのまま長話になり、同じ話を何度も繰り返す中、何度も頑張れよと言われ、
そんなにプレッシャーをかけられてもなぁと思いながら聞いていました。
半分くらい聞き取れないので、結局誰と間違えてかけてきたのかも聞き取れず。
そんな中、多分親戚間では初めて「彼女できたの?」と聞かれました。
まぁ、言うまでもないですが、僕はまだ春が来ていない類の人間なので
正直に答える事にしました。

「彼女はまだいないよ!」
と言った後の二の次として思い浮かぶ選択肢は、
「彼女欲しいから恋愛面も頑張るよ!」
とでも言っておくべきなのか、
「ぶっちゃけ恋愛とか興味ないし!」
とでも言っておくべきなのか、一瞬迷いましたが、よく考えないうちに
自然と後者の方を口に出していました。
といっても、ストレートにそれを言ってしまうのもどうかと思ったので、
恋愛してる暇ないな~、みたいなニュアンスで言ったと思います。
現実には、大学院入学以来“出会いがない”と言うのが最も適切なのでしょうが、
泥酔した相手にそこまで切り出す価値もないだろうと思って
うやむやにして、その話は脱出するに至りました。

こんなにも恋愛と縁のない自分ですが、
去年末の“自分以外の何かへの興味関心が自分を形作っているんじゃないか”
というような物思いから、恋愛観の事も考える事は間々あります。
別に、理想的な恋愛をしたいだとか、
そこに向かって突き進むために考えているのではなくて、
単純に興味のある一分野なんですよね。
強いて言えば創作と通じるところがあると思いますが、それは今はおいときます。
とりあえず、せっかくの機会なので今の恋愛観についてまとめておこうかなと。
というわけで以下、今までの黒歴史をごらんください。

  いつか結ばれる相手がどこかにいるのなら、
  いつかきっと流れるままに恋なんて訪れるんですよ。
  今はそういう事を夢見る時期なんですよ、きっと。
  なるべく早めがいいんですけど、僕はきっと遅いかいないんですよ。
  だから、僕は彼女はいません。
  いりません、じゃないです。 (2005年01月20日 #142「いつかきっと」)

  人が異性を好きになるっていうことが、どんなことなのか考えていた。
  ひとつ出した答えが、「鏡」。相手を好きになる前に自分を好きになれなければ、
  絶対に恋は実らない。そう消極的になって、こんどは自分を見つめる。
  そしてうつむく。 (2006年06月12日 #755「霞んでいく話」)

  もし恋愛をすることになったら、
  その時は自分と同じ背丈の人を探しているだろう。
  “成り立つ可能性のある”恋がもし訪れたら、
  それを本物の初恋と呼ぶことにしようと思っている。
  (2008年06月12日 #1539「6月12日の結論」)

いやー、痛いですね。この他にも2005年は恋愛詩がいくつかあったりして
ここに挙げた以上に痛い文章もあって、なんだか虚しくなりました。
ちなみに2009年以降に恋愛の話が全くないのは、恋愛感を考える代わりに自尊心だとか、
他のテーマについて考えることが多くなったためかと思います。
全く考えてこなかったわけではなく、
2011年辺りでもう一度転機があったような気がするのですが、
随想にまとめるほど考えがまとまっていないのが現状。

大雑把にまとめると、2005年以前の自分にとって、異性への恋愛とは、
「自分にとって容姿や仕草がかわいらしい女子が、
 たまたま話しかけてくれるなどの奇跡的接点があると恋愛は成り立つ」
というもの。つまり、この時点では恋愛する本人(=自分)の事は全く顧みていない、
いわばアイドルに恋した、と同レベルの本能的欲求――と今は考えています。
この手の恋愛観で片思いをすると、相手が他の女子よりまぶしく見えたりします。

2006年、ようやく自我に気付いた(?)自分は、ふと
「今の自分は理想的な相手に足る恋愛相手なのか? いや、そうじゃない」
という片思いの欠陥に気が付きます。
ようするに今までの恋愛は、相手の立場に立って全く考えてこなかった、
所有欲ありきの汚い恋愛だったんだ、と酷く自分を責め立てた……
かどうかは分かりませんが、少なくとも奇跡を信じるような乙女心はなくなりました。
そして、その代替となる恋愛に気が付かなかったのが高校時代末期。
ここで気が付いていたら大分変わっていただろうに……。

2007年、その代替のようなものが、「自分と同じ背丈の人なら恋愛は成り立つんじゃ?」
という疑問になって浮き出てきました。
ただし、大学時代は例によってあんな風な時代に終始してしまったので
余計に出会いの機会に恵まれず、恋愛観も次第に頭の中だけで完結するようになります。
“自分と同じ背丈の異性”が気になり出した時は、
相手がまぶしくて見れない、というような刺激的なものではなくて、
なんというか、「この人とどこかで会ったっけ?」
という強い親近感に似たようなもののような気がします。
所有欲とは多分違う類の、
このひとと側にいたいという感情が芽生えた唯一の瞬間だったのかも。
それはたった一度だけ経験があったのですが、あれが恋愛感情だったのか否かは
未だに決着が付いていません。

ここからひとつ言えるのは、同じ背丈でない相手とは恋愛は上手くいかないんだろうな、
という事。高低差があったらきっと相手を気遣う配慮が必要になってくるだろうし、
逆に、そういうものがなくて初めて、腹を割って長話ができるだろうし、
“長話ができる”というのは、今の自分が恋愛するとしたら、
相手に求めたい条件のひとつと言えるんじゃないかなと、2011年震災発生頃から
そんな事を考えていました。
ただ、長話が結婚後も一生続く相手というのは、
決して「自分と似た人」ではないかもしれない、というのが現段階のテーマ。
同じ背丈なのに“似た人じゃない”というのは矛盾しているような気がしますが、
なにしろ出会いの数が少ない人生なので自分でもよく分かりません。

彼女が欲しくないといったら嘘になってしまいます。
が、いちゃいちゃしたい、一緒に出掛けたいというような願望は全くなくて、
ただ、自分を認めてくれる人、自分の欠陥を埋めようとしてくれる人の存在は、
心底欲しいと思っています。
今の自分はそういう存在さえあれば前向きに変われそう、とさえ思っているくらいです。
そのためには、2006年当時に気が付いたように
“相手にとっての自分”を考える必要があって、でも今度は
「自分が理想を求めるなら、自分自身が相手にとっての理想でなくてはならない」
というような無茶苦茶な話ではなく、
単純に認めたいと思える人を素直に認められればいい話なので、
あとはまぁ、出会い運次第かなと思っています。
その前提には、今の自分がまだまだ不足しているコミュ力が重要になってくるので
簡単とは言い切れませんが、でも無謀というほどではないのかなと。
学科などの関係で似た者が集まる大学時代が最大のチャンスだった事は言うまでもなく、
そういう事を考えるとまた後悔の連鎖になってしまうんですけどね。

めちゃくちゃ長くなりましたが、ようやくここから酔っ払い祖父の話になります。
祖父に言わせれば、自分含め今の若者は恋愛感情や努力する勢いが足りないから
もっと積極的になれよと言うのですが、
上のような理由があるので、少なくとも合コンの類は自分の主義に反するし、
でもそういうのを除くと出会いの場はごく限られてしまっているので、
「彼女作るために頑張る」とかは嘘でも言えない状況ではあるんですよね。
少なくとも今は祖父の現役時代とはいろいろと
テンプレが異なっているんじゃないか、という事を言いたかったのですが、
聞く耳を持ってくれませんでした。
今度から祖父母家帰省の度「彼女できた?」と言われるんだろうか……。
「他人にせかされたから恋愛したいです」
というような、恋愛にまで自主性がないような人間にはなりたくないのですが、
如何せんそういう事を強いられるような年齢になりかけているのも事実。

そんなことをぐるぐると考えているうちに、
結局恋愛は、2004年当時の自分が思っていた通り
奇跡がないと成立しないもののような気がしてきました。
今の自分の恋愛観は思春期の直感に劣るのか……?
ともあれ、他人に言われたからどうこうではなく、
恋愛観だけは自分の思うままに行動したいものです。
その結果、一生結婚できなことがあっても、それはそれでいいかなと今は思っています。

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