#3000

空想の世界 -前編-


創作


周波数の高いノイズに混ざって、どこからかピアノの音がポロポロと聞こえてきた。
四階にあるこの教室は、放課後の夕暮れ時になってくると
同じ階にある音楽室からいろいろな音が聞こえてくる。
私は、なんだか懐かしいような、遠くの世界にあるようなその音に耳を傾けながら、
黙々と学級日誌を書き綴っていた。
前の席には、私の良く知っている女の子が、いつものように本を読んでいる。

関心のあることや興味のあること、好きなものについて考えるとき、
頭の中で私のスピーチを聞いてくれるひとがいる。それが彼女だ。
彼女は決して自分の事を自慢げに話したりしないから、
彼女の好きなもの、得意なこと、興味のあることなどは私はほとんど知らない。
ただ、彼女が聞き上手である事だけは知っている。
彼女にものごとを話すと、いつも真摯に受け止めてくれるし、
彼女なりの考えをぶつけてくれる。結果的に、話してばかりの私の方が、
ものごとをもっと好きになれたりする。
彼女は少し前まで私と同じくらいの背丈だったのに
最近急に伸び始めて、すでに頭一個分は私より高くなってしまった。
座高が高い上に姿勢もいいので、私はいつも見上げてばかりになった。
それでも、話していると彼女の方が小さいのではと思うほど、彼女は謙虚だった。

日誌はなかなか進まない。金魚のえさやりはした。
黒板に書いてある日直の名前は明日の人の名前に書き換えた。
あとは日直として今日の授業の感想を書くだけだ。
昨日の図工は面白かったが昨日の事を書くわけにはいかない。
今日の午前中の授業は卒業式の予行練習で潰れてしまって、午後は算数と体育と国語。
体育は好きではないので書きたくないが、他もこれといって書きたいことはない。
段々、日誌と向かい合うよりも、夕陽を眺めている時間の方が多くなっていく。
窓の方へ振り向くたびに、少しずつ暗くなっていくのが分かる。
私がぼーっと外を眺めていると、
「日誌、終わった?」
と声をかけられ、振り向くといつの間にか彼女がすぐ側に立っていた。
私がふるふると首を振ると、「そっか」と言って、
彼女は後ろで手を組みながら、前屈みになって私の学級日誌をのぞき込んだ。
一見して随分お姉さんになったなと思う。
彼女の問いかけが『一緒に帰ろう』という意味であるという事は分かっている。
それでも、間違いなくもう卒業までに回ってこない日直の仕事を、
ここで中途半端に終わらせてさっさと帰ってしまいたくはなかった。
彼女もこういう事は手を抜かない性格だし、分かってくれるだろう。
担任の先生が様子を見に来て、
「頑張ってますね、でもそんなに細かく書かなくてもいいんですよ」
と言ってくれても、私の気持ちは揺るがなかった。
しかし、音楽室からのピアノの音が止んだ途端、
何故か私は早く帰らないといけない気がした。

日誌には結局、卒業式予行の事を事細かに書いて教壇の上に置いた。
窓の向こうは完全に日が暮れて真っ暗になっている。
私は彼女と道中まで一緒に歩いて、他愛もないことをしゃべりあっていた。
卒業式まであと半月、今は二月ももうすぐ終わりというところだ。
車道を走る無数の車、道路脇にあるさまざまな店のネオンや建物からこぼれる光など、
さまざまな光に照らされながら私たちは歩いた。
彼女と別れてからの道は、住宅地の入り組んだ迷宮のようになっている。
私は歩きながらもうすぐ卒業なんだという事をしみじみ考えた。
そこにも彼女は必ずいた。
彼女とは中学校でも同じクラスになれるだろうか、というような事ばかり考えていた。

両親はまだ帰ってきておらず、自分の家だけが真っ黒になっていた。
玄関のドアを開けると、私はすぐに階段の辺りにある違和感を見つけた。
玄関から入って正面にある階段は、上がってすぐ左方向に曲がるようになっており、
そのため五段目までの足場は三角形になっている。
その四段目の辺りに、かすかに橙色の光が漏れているのである。
頭の中にいる彼女はこう言う。
『あれ、なんだろうね?』
すると、私の中にあったはずの恐怖心が、いつの間にか好奇心にすり替わっている。
『あれはきっと、地下室への入口なんだよ』
そうやって私なりのお姉さんを演じつつ、私はその光に近付いてみた。
人工的な明かりではあるだろうが、その橙色はなんとなく懐かしさとぬくもりがある。
四段目そのものが光っているのではなく、
正確には四段目と五段目の間にある板の隙間から光が漏れているようだ。
私が手をかけてみると、それは容易に開ける事ができた。
その板の向こうには、橙色の光にぼうっと照らされた、
見たことのない地下への階段がある。

私は一旦、玄関から近い部屋に荷物を置いてから、
光の漏れる隠し部屋の入口へと身体を詰め込むようにして入った。
何故、お父さんやお母さんはこの事を黙っていたんだろう。
もしかして知らなかったのかもしれない。帰ってきたら教えてあげよう。
そんな事を考えながら、一段ずつ確かめながら降りていく。
橙色の光はその一番下から伸びて右側へ続いていた。一階ならリビングがある場所だ。
あと三段を残してほとんど降りきった時、
私は今更ながら、ここに誰かいるかもしれないという可能性に気が付き、
恐怖心が一気に戻ってくるのと同時に後悔を抱いた。しかし今更引き返すのも癪だ。
降りてすぐの部屋は、天井に豆球が光っているだけの暗い八畳くらいの和室で、
中央に見慣れた炬燵がある。そこはいつもの私が過ごしているはずの部屋だった。
たっぷり浸かっていたはずの恐怖心はまたすぐに引いていき、
私は防寒具を着たまま炬燵布団の隙間から漏れ出る光の正体を見ようと、
それをめくって中へ頭を入れてみた。
そこは、私が丸まってみてようやく入るくらいの空間で、
ほどよい暖かさは私の気を楽にした。
私は炬燵の中の隅から隅までのすべてに温度とは別の暖かみを感じた。
四段目から漏れ出る光はこの炬燵のやけに明るい光が漏れ出たものだったようだ。
今、足下は炬燵布団に隙間ができないようにしっかりと閉じられている。
こうなってしまえば、もう誰にも見つからないだろう。
なんだかかくれんぼをしているみたいで、私は懐かしい気分にもなった。
かくれんぼは、ずっと見つけて欲しくないから誰も知らない場所へ隠れるわけではない。
ただ、誰もが知らない場所を私だけが知っている秘密基地を、
鬼役の子に披露してみたいだけなのだ。
この炬燵の中は、まさにそのとっておきの秘密基地に値する場所のように思えた。

しかし今は、誰かに探されているわけでもないので、次第に退屈になってきた。
転た寝をしそうになった私は、炬燵からゆっくりと出て、
豆球の光だけを頼りに辺りを見渡すと、ひとつだけドアがあるのに気が付いた。
その向こうには玄関があった。一階のちょうどこの上も玄関だ。
私は暗がりの中に、先ほどまで下校のために履いてきた靴があるのを見つけた。
私はさまざまな疑問を押し殺そうと努めながら、その靴を履いてドアに手をかけた。

ドアの向こうを確認した瞬間、私はいい知れない開放感と寂しさと無力感のために、
さっきまで私を包んでいた懐かしさや暖かさは、さっさとどこかへ逃げてしまった。
目の前には、たとえ本を持っていても読もうとは思えないくらいの暗さの中に、
六車線はありそうな、広大でどこまでも続く道があった。
そのまわりには暗闇から地面に突き刺さるように高層ビルがそこかしこに建ち並び、
空中には立体的に編み込まれた線路や高速道路が
ビルの合間を縫うようにして走っている。それらすべてに人の気配や明かりはなく、
ただ満月が足下の地面を照らすばかりだった。

私は何もかもが信じられなくなったあげく、月を頼りに歩道の脇を歩き出した。
まもなくすると十字路が見えてきた。左右へ伸びる道路はさらに広く、歩道も広かった。
そして、ちょうど歩道を歩いていた左側の道路の果てに、
何やらテーマパークでもあるような大きな白い光があるのが見えた。
私は、ふと自分が来た道へ振り返った。
光を見た瞬間、
『もういいや、帰ろう』
と心の底から何か人間くさい感情が湧き出てきたのである。
それは心の中に住む誰かに話しかける時とは別の心の声だった。
私は振り返ってしばらく歩き、
自分の家らしいシンボルを探したがなかなか見つからない。
ふと、寒気を感じて両手を上着のポケットに突っ込むと、
右手の方に何か知らないものが入っているのに気が付いて、思わず手を引っ込めた。
なんだか四角なプラスチック製品のような気がしたが、全く身に覚えがない。
立ち止まっておそるおそる取り出してみると、それは携帯電話だった。
銀色で丸みを帯びた折り畳みタイプだ。
担任の先生がこれで話しているのを見たことがあるので、
携帯電話だという事はすぐに分かった。
試しに開いてみると、小さな画面が点灯して
新着メールがある旨のメッセージが表示されていた。
メールには件名がなく、本文にただ一言、
『何か疑問が浮かんだら、貸してね』
と大きな文字で書かれていた。宛先欄には、私の名前が書かれていた。

私は帰るべき場所へ向かって歩きながら、メールの事について思案を巡らした。
最初は落とし物を拾ったような感覚でついメールを見てしまったが、
なにしろ私宛てというのだから真剣に考えざるをえない。
授業中に似たような質問をされたら、
最も無難なのは『特にありません』と答えることだというのは
最近の私のクラスでの暗黙の了解のようになっている。
疑問は引っ張り出されるべきものではないと私も思う。
そんな事を言い訳のように反復しながらも、
同時に私は今、知りたいことが山ほどある事に薄々気が付いていた。
疑問があるか、と訊かれたら、まずここが何なのかを訊きたい。
そもそもこのメールの送信主は誰なんだろう?
随分となれなれしい口調だから少なくとも知った顔だろうし、
そうでなくても私の名前を知っている人は限られているはずだが、
このメールだけでは誰なのかが見当付かない。
浮かんだ疑問を書いていいのはひとつまでなのだろうか?
大体、本文の“貸して”というのが引っかかる。それはどういう意味なのだろう?
そんな事を考えながら歩いていると、また見たことのない十字路に行き着いた。
引き返しているはずなのに、なんだかおかしいという予感を十分に感じつつ見渡すと、
今度は右側の道路の果てにさっきの光が立ち上っているのが見えた。
私は心の中ですら何も言えなくなって、その光を見ながらしばらく立ち尽くした。

迷ったという事は、九割九分わかっていても、まだ認めたくはない。
解決策はある。要するにこの十字路から向こうの十字路までの道のりの中で、
左側にある建物を調べていけばいいだけの話だ。
と、建物を睨みながら引き返してみるが、
実はここへ来た時、ドアから出てすぐの時に
今見えている道が正面に向かって伸びていた事をしっかりと覚えている。
道路脇にゴールがあるはずがないという事を、私は同時に理解していた。
それでも気休めに、知っている道に立ち並ぶビルを眺めてあり得ない回答を待ち続けた。
歩いている間、このまま一生出口が見つからないかもしれないという事を考えると
少し泣きそうになったが、やがて、再び十字路に出て、
疲れを癒すために壁に寄りかかって休んでいると、
私にはまだ気休めになる手段が残されていたことをふと思い出した。

携帯を取りだし、数十分かけて『帰り方を教えて』と打って例のメールに返信した。
一分も経たないうちに返事が来た。
『ようこそ、いらっしゃい。
 まずは目の前の光を目指して歩いてみてね!』
私は、なんだか少しずつ自分で考える力がなくなっていくのを自覚した。
私は早すぎず遅すぎない足取りで光の果てへと歩き出した。

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