#3166

止まり木の話 -前編-


独り言 自分


“来る人は拒まず、去る人は追わない、いろんな人に求められる止まり木でありたい”

そんな事を考えるようになったのは高校二年の頃だったかと思う。
頼られたら全力でぶつかりたい、けれど、
求められてもいないのにこちらから働きかけるのはどうも好かない。
頼られた時は、頼ってくれた人の事を考えているだろう。
しかし、ニュートラルの状態では
まるで「他人に働きかけてみよう」という気概がない。
第二次性徴期までの人生を経て、兄弟の中でも年長者なのだから
弟たちと遊ぶ中で自分が提供者となるべくいろいろな事をしないといけない、
というような環境が、こんな性格を作ったのではないかと思っている。
だから、自分が年長者でもなんでもない、ただの個人に成り下がった学校という場では、
求められない限りは白紙の存在で、それは“本来の自分”ではないはずだった。

小学校時代、こんな風に自分の立ち位置について思い悩んだ事は少なかった。
それでも、自分はこういう立場でありたい、という気持ちが、
友人たちと遊ぶ中で現れていたような気がするし、
小学校時代はまだ、弟と遊ぶことと同級生と遊ぶことには大きな差がなかった。
中学時代になってそれが通用しなくなると、僕は一旦白紙の人間になる。
ごく少数のグループ内でわずかに自分らしさを維持できていただけで、
クラスの半数以上からはほとんど無に近いような存在だったのではないかと思う。
実際、僕にとっても中学校のクラスメイトは遠い存在だったし、どうでもよかった。

高校時代になって、所属グループがクラスメイトの同性の半分くらいの規模になり、
その中で自分は、ゲームという趣味に明るい人間として
その立ち位置の中である程度腕をふるっていたような気がするが、
例えばクラスメイトの異性からはどういう風に映っていたのかは知らない。
こちらから働きかけない木のような存在だったから、
向こうから寄ってきてくれる人以外との人間関係は、
これまでの人生で最もいろんな人と喋っていた高校時代ですら希薄だった。

止まり木でありたい、頼られたら全力でぶつかりたい。
聞こえはいいが、結局それはこちらから他人に働きかける自信がないということだ。
なんのきっかけもなく、それなりに大規模なクラス単位という村社会の中で、
何人か話しかけづらい人がいるのは自然だと思う。
しかし、自分の場合は、何かの用事で話しかけなければならない時にも、
どうしても高い壁を感じてしまい、懸命に話すことを避けようとしてしまう。
率直に考えれば、これは明らかに「コミュニケーション能力」がないからだと思う。
しかしそもそも、コミュニケーション能力とは何なのか。

空気を読むという事の難しさを知った、先日の中間発表会。
自分よりもはるかに普段対人関係が円滑でよく喋る人たちでさえ、
中間発表会会場では
自分から見ても明らかに空気を読めていない場面というものがあった。
彼らは僕と違って自分の考えを話し言葉でリアルタイムに表明できるし、聞き上手だ。
それでも、フォーマルな場ではあからさまな失敗をおかしてしまう。
それがコミュニケーション能力の不足のためだったら、
彼らの足下にも及ばない自分にとって、
コミュニケーション能力の取得には絶望的な壁が存在すると考えざるを得ないが、
普段の彼らを見ているとどうも、そうではないように見える。
自分の考えを話し言葉に乗せて他人に伝えるのがコミュニケーション能力なら、
彼らはそれを十分に備えていると思う。足りないのは空気を読む力、
他人の立場に立ってものを考える力だ。
今まで僕はこれらは同一のものとしてずっと考えてきたが、
もしかするとコミュニケーション能力と空気を読む力は全くの別物なのかもしれない。

自分から働きかけられない=自信がない、という事を押し進めていくと、
それは「他人が持つ貴重な時間を自分が奪うのは申し訳ないから」というような、
ある意味で他人の立場に立ってものを考えていると言うこともできる。
しかしこれは上に挙げた同じ言葉とは全く別の意味を持っていて、
この場合は相手を思いやっているというより、相手を信用できていないからだと思う。
相手を全面的に信用した上で空気が読めなくなるのは、
それぞれに肩書きがくっつく発表会というフォーマルな場ならではのことだが、
僕の場合はそれがほとんど常に起こっていると言える。
こんな自分を見ていると、自分に自信がないと、
他人をどんな風に思いやろうとしても友人関係を壊すことになるのかとつくづく思う。
人間関係の終わりは、喧嘩など分かりやすい形だけではない事に、
最近ようやく気が付いた。

2010年秋から高校時代の友人とSkypeをするようになって、
最近はその機会も徐々に少なくなってきた。
それは言うまでもなく、こちらから相手にコンタクトを取ろうとしない事が原因だし、
何より2011年後半頃から明らかに会話がつまらないと感じてきた事に因る。
普通であれば就職しているはずのこの年齢になってしまうと、
全員が知っている共通の話題と、それぞれが知る専門分野の比率は
かつて同じ教室で過ごしていた時と比べると、まったくの真逆になっている。
そんな中で、全員が均等に楽しめるような会話を展開するのは至難の業だと思うし、
たかだか社会経験二年程度、大学院生程度の人間たちにそれができるはずもなく、
大抵僕が参加するSkypeでは高校時代の思い出話は出尽くしてしまって、
それぞれの趣味の話、それぞれの専門分野の話の自慢大会になってしまう。
だから、相手の人格を全肯定するくらい相手やその専門分野に興味がないと
到底会話そのものが面白いとは言えないし、
それぞれが大学時代以降で培った知識を脇に置いて全員共通の話題に花を咲かせるには、
相当に空気を読む力が必要だし、自己顕示欲を抑えなければならなくなる。
むろん、自分はと言うと、自分一人で饒舌になって専門分野を話すような自信もなく、
大抵は誰かの一人語りになると相づちだけの参加になってしまう。

Skypeを使う機会が減ってから、
僕はどうしても、知人を批判的に見たくなって仕方なくなってきた。
これもコミュニケーション能力がない所以なのか、知らないが、
とにかく最近喋っていない人のかつての発言を思い返しては、
それは間違っていたんじゃないか、というような事ばかり考えている。
止まり木とはいっても、人間である以上自己顕示欲はあるし、
Skypeというせっかくの会話の機会でそれが発散できないと、
むしろずっと一人で引きこもっているよりもよっぽどストレスが溜まるし、
それを爆発させないための安全装置が、この脳内知人批判なのだろうと思うが、
それにしてもこんな事は知人には話せないし、我ながら汚い人間だなと思う。
ある意味、それと似たもうひとつの安全装置がこのブログだとも言える。

全く知らない人に、意味もなく嫌悪感を抱くことはほとんどない。
しかし、アパートの隣人をはじめとする“中途半端に距離が近い人”に対しては、
その人の欠点が見え隠れしてしまうと、どうしても批判したくなる。
それでも、何かしら話す機会があればすぐにこの現象は解消するし、
あえて本音でぶつかってみたら、案外わかり合える人だ、となる事もあるのだと思う。
ただ、高校時代のクラスメイトなどとはもうそう簡単に会える相手でもない。
これから永遠に自分の思考の中で彼らはサンドバッグであり続けるのか、
だとしたらこれは自分自身の心の欠陥なのか、人として自然な現象なのか……。

一つ確かなのは、このまま止まり木であり続けると、
本当に友人関係そのものが消滅しかねないという事。
そして、自分の中の知人が批判対象にしかならなくなってしまうという事だ。
最後の一人との関係が途絶えるまでにこれを克服しないと、
僕は今よりもよっぽど自分本位な、他人から見て嫌な人間になってしまうだろう。

「信」という字は嘘がなく誠実であるという意味を持つ。
自信という二文字は良くできているなと感心する。
僕は、どこかで自分自身に対しても嘘を付き続けたから、こうなったのだろうか?
自分にだけは甘く正直に、自分の世界を持って生きてきたつもりだったが、
どうやらそこにはすこしばかり欠陥がありそうだ。

コメントを残す