#3300

止まり木の話 -後編-


独り言 自分


僕はこのブログで黒歴史という言葉をよく使う。
過去の自分に対する後悔の念、あのときこうしていればという強い思い。
それは直前のことに対してもよく感じるし、
今までの自分史の中で文字通り暗黒の部分をふと思い出しては鬱になることもある。

それはいつも決まって、自分以外の誰かとの関わり合いの中で生まれる。
それも、自分が「この人をちょっと信用してみよう」と思ったときに限って生まれる。
高校以前の黒歴史の数々はまさにそうだし、大学時代最初期のこともそう、
2009年の掲示板をめぐる黒歴史の数々や、
中学時代以前のゲームなどをめぐる家族や親戚とのトラブル、
あるいは恋愛観にも同じことがいえるかもしれない。
その根底には、人と少し違うひん曲がった自己顕示欲がいつも渦巻いている。
自分だけで完結する物事については、それを不十分だったと思うことこそあれ、
それほど後悔を抱くことはない気がする。

人間関係の上で黒歴史を生み出す法則を長年学習してきたからこそ、
僕は心のどこかで“止まり木”でありたいと思っていたのかもしれない。
このポジションから一歩出ると、他人との間で何か良いことが起こる可能性もあるが、
反面黒歴史を生み出すリスクもある。
一方、こちらから動かずして生まれた人間関係でトラブルが生まれることはあまりない。
それは、止まり木を見付けて止まってくれる人々が
僕を信用してくれていたからだと思う。
逆を言えば、他人を信用できないと思っている自分の方から働きかけて
関わったときの他人は、自分のことをあまり信用してくれていなかったのかもしれない。
その結果が黒歴史を生み出したのだろうか。

人間は、自分にとってベストだと思う行動を本能的にしてしまう能力があるらしい。
それは、例えネガティブなことでも、
その行動はそれが良かれと思ってやった結果であり理由が存在するということでもある。
僕はこのことに2010年頃になんとなく気付いて、
その結果が今手の中にある趣味の数々の蓄積なのだろう、と思ってきた。
当時は、一方で人間は必ず間違いを犯してしまう生きものだということを
信じて疑ってこなかった。
その“間違い”の蓄積こそが、このネガティブ思考なのだと。

しかしよくよく考えてみれば、ネガティブ思考になった経緯にも理由はありそうだ。
止まり木になりたいと思うようになったのは、自己防衛の結果だったのかもしれない。
自己防衛、という言葉を当てはめていけば、
それはこれまでの黒歴史の数々にも言えることのような気がしてくる。

他人とのコミュニケーションの機会が減ってくるにつれ、
他人の発言を批判したくなるようなことがあることにも、何かしらの理由があると思う。
それもよく考えれば、他人の発言がどうこうというよりは、
そこに伴う自分の発言を修正したい気持ちの方が強いような気がする。
だとしたらこれも自己防衛だし、自己顕示欲の発散とも言えるかもしれない。

ごくまれに、ふだん黒歴史と言っている出来事も、
よくよく思えば悪くなかったかもしれない、とふと思うことがある。
その心理の根底にあるのは、
あるいは過去の自分に対する諦めの気持ちなのかもしれないが、
これは過去の自分に対する今の評価が、あまり当てにならないことでもあると思う。
僕はこのブログでよく過去の自分を痛めつけ、過小評価をする。
それを書こうとすることにはなにか意味はあるのだと思うけれど、
その評価自体にはあまり意味はないのかもしれない。

二つの選択肢に迷ってしまったときは、実はそれはどちらも正解なんだ、
というような話をある人からしてもらったことがある。
これまでの人生がまさに選択肢を選ぶ繰り返しだったと思うし、
これからも多分、それは続いていくことになると思う。
見知らぬ土地で一歩踏み出すのが怖いのなら、
まずは上に登って辺りを見渡してみるのも悪くないかもしれない。

コメントを残す