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独り言 自分


コミュニケーション能力という非常にあいまいな言葉がある。
昔の僕には、友人や知り合いと話すときに「コミュ力不足だから」「コミュ障だから」
と言っておけば、自分の真意をその場でうまく話し言葉に乗せられなくても、
相手に「今聞いたこと以上に考え込まれた真意がアイツの頭の中にはあるんだな」
と思わせたいと思っていたような節があった。
そこには、自分の話し言葉はどうせ理解してもらえないという諦めの気持ちや、
自分の胸の内にある真意を否定されたくないという傲慢な気持ちがあったと思う。

そんな傲慢な時代を長く過ごしてきて、僕は未だに話すことが不得手であり続けているし、
それが一種のアイデンティティーとして凝り固まってしまっている。
表出することのない“否定されたくない真意”には「確信はないが、」という枕詞が付き、
その面影は年を経るにつれて随分とみすぼらしい姿に変容してきた。
誰にも否定されたことのない真意というものは、誰にも肯定されたこともない。
そうあり続けることで、徐々に自分の中にあるいろいろな考えが孤立していってしまう。
コミュニケーション能力が、というより、他人と意見を交わすことの有意義さは、
自分の真意を他人に評価してもらうことにあるんじゃないか、と考えるようになってきたのは、
本当にごく最近になってからのことである。

今までに出会った“大人なのに子どもっぽい人”に共通するステレオタイプは、
それぞれが常に他人の意見を受け入れられない人か
自分の意見を伝えられない人のどちらかにあてはまっていたように思う。
正義の場所が常に自分の胸中にあると信じて疑わない。
要するに自分の信念を他人の意見や行動に左右されるのをひどく嫌うのである。
その原因が何なのかは今の僕には想像が付かないけれど、
ともかく理論や知識の量ではない何かが、
大人と“子どもっぽい大人”の境界線を作っているような気がする。
僕はその意味で言えば、今現在まだ“子どもっぽい大人”段階から抜け出せていない。

一方で、今までに出会った“大人にふさわしい人”は教えることが巧い人たちばかりだった。
ただ表面上の知識を“伝える”だけなら子どもでもできる。
ところが知識を的確に“教える”となるとなかなか難しい。
知識を伝えるだけなら、第三者の言葉をそのまま持ってきても伝わることは伝わるだろうし、
伝える相手がどこまで理解したかを、伝える側が心配する必要は普通はない。
けれど教えるとなると、教える相手の知識量や技量、聞く力や話す力を最大限把握して、
相手が理解できるように慎重に言葉を選んだり、言葉以外の道具を使う必要さえ出てくる。
教えることと伝えることの間には確実に大きな境界線が存在し、
それこそが子どもと大人の境界線なのかもしれない。

コミュ力不足を自称する“大人なのに子どもっぽい人”が
他人と自分の間に積極的に線を引きたがる性質があるということから逆説的に考えれば、
他人を分け隔てなく受け入れられる人こそが大人と言えるのだろうか。
それを踏まえて、遡って昔思い描いていた“理想の大人像”に思いを巡らせてみると、
やはりそれは大人と言うより、子どもの考えた大きな子どもであることに気付く。
大人というのは、その人が未だ到達していない場所に向かう前向きな気持ちを指すのだと思う。
今までの僕は、“大人”という言葉を考える脇で無意識的にしろ意識的にしろ、
その対義語である“子ども”を未熟者として決めつけていたことに気付く。
自分は子どもであり、未熟だからこそ、未だに行けない場所に尊敬の念を抱くのだろうし、
真剣に夢や目標について考えもする。
すべてを達成したと自負する人は、果たして自分の夢について語るだろうか。
そういう人のこそを“大人”と言うべきなんだろうか。僕はそうは思わない。

さすがに“大人”という言葉に“理想”を重ね合わせる時代は過ぎ去っていったように思う。
”幻影”でもないと信じている。
かといって、それを自分の信念として受け入れられたわけでもない。
今、過渡期にあってそれは背くことのかなわない“目標”となりつつあるように感じる。

ある日、僕はこれまでの日々の大切な思い出を振り切って、
別の何かに引っ張られるようにそこへ向かった。
その引っ張る何かの正体は、
あるいは「子どもであり続けたい」という気持ちそのものだったのかもしれない。

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