#4200

自信の話


文化 独り言 自分

思えば思春期の僕は、常に周りの思想を否定して憚らなかった。
自分に対しての指図は常に、発言者の利己心があってこそだと思っていたのか、
ともかく「勉強する意義」を見出そうともせずに、親や教師に背いていたものだった。
そうしないと、自尊心を保てないからだと思っていたからなんだろう。
勉強することで、自分自身が、自分の知らない何かになることを恐れていたのかもしれない。

それから数年が経った大学時代のある日、ある瞬間に、
他人はそう簡単に否定できないんだということを信じるようになった。
何かの本の受け売り文句というわけではない。大学の少ない知り合いが教えてくれたわけでもない。
ただ孤独な環境が僕を卑屈にし、誰からも認められずに承認欲求に餓えるようになったとき、
なんて僕は取るに足らない存在なのだろう、と絶望した。
そしてどん底から見上げたときの「他人」が、輝かしく素晴らしいものに一瞬見えたのだ。
それはああいう風になれたらどんなに良いだろう、という羨望の眼差しなのか、
昔は同じ視線も「嫉妬」にすぎなかったのだと思うと、
あの瞬間は僕にとっては大きな一歩であったのかもしれないと、今改めて思う。

さらに数年が経って縦社会に投げ出され、今度は他人を否定できなくて困っている自分がいる。
他人を常に平等に見てその立ち振る舞いを否定せず、成り立ちを尊重するという行動は、
他人を否定することで信用を失ってしまうのではないか、という被害妄想に囚われ、
ただひたすらに穏便に済ませようとしているに過ぎない。
要するに、他人を一切否定しないということは、
「自分が否定されたくない」という気持ちが先行しているだけであり、
それは遠回りに他人の話を聞いていないということに等しい。

しかし他人を否定することは難しい。闇雲に他人を否定するだけでは退路を断つだけで、
それはお互いの信頼関係にヒビを入れるだけである。
他人を否定する以上は、否定する何某かを上回るものを手渡さなければならず、
しかも他人の持つ責任をも請け負う必要がある。
そのためには、まず何よりも自分自身が手渡すものに対して絶対の自信を持っていなければ、
無防備に手渡すことはできないだろう。
それが相手に理解されなければ、結局否定した意味を理解してもらえずに、
ただ感情的に評価を下げて終わってしまう。

また、自分の中にある相手の主張を上回る何かを、
相手が受容できなければ否定するコミュニケーションは結局成り立たない。
相手が持っている受け入れられる力というのは、とどのつまり信頼関係の大きさである。
逆を言えば、ある程度信頼してくれた上で、
相手が「あの人は自分が思っている以上のことを提示してくれる」と信じてくれるようになれば、
コミュニケーションのハードルはぐっと下がる。
否定することに失敗すると他人との信頼関係は落ちるかもしれないが、
否定した上で上手く自分の考えを手渡すことができれば、それは信頼関係の種になる。

自信とは、信頼という名のパイプを通して脈々と手渡されてきた、
先人の知恵のことを言うのかもしれない。
今までの僕は、自信という言葉は、他人とは独立した気構えや精神状態を指すものだと思ってきた。
しかし考えてみれば、自信という言葉を使うときには、常に想定する他人が頭に浮かんでいるし、
それと自分との相対関係の上でしか使われていないことに気が付く。

昔の僕が周囲を否定してばかりいて、自信がないことに思い悩んでいたのは、
まだ誰からもバトンを受け取っていなかったからなんだろう。
これからさらに年齢を重ねるにつれて、他人を見上げるよりも見下ろすことが多くなれば、
僕も一端の社会人として、否定ばかりするようになるのだろうか。
それとも、いつまで経っても受け取ることができずに否定される側として過ごしていくのだろうか。
今は年齢的にちょうどその分岐点に立ってはいるが、
まだまだ僕はこれまでの人生で、他人の価値観を受容する機会が少なかったように思われる。

別に同年代の輩に追い越されてしまってもいい。
ただ他人の言葉に耳を傾けることを諦めてはいけないと思いつつ、
今はただ、気が置けない人々と一人でも多く出会いたいという気持ちに包まれている。

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