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独り言 自分


人生が有限であることは言われてみれば当たり前なのだけれど、
日々の生活でそれを意識することは少ない。
平均寿命80年というスケールの大きさは、一日で考えるにはあまりにも壮大だからだ。
それでも、具体的な数字を突き付けられ
人生の現在地を再確認せざるを得ない一日を、誰もが等しく持っている。

二十歳前はその数字を直視したとき、どちらかというと
これまでのあらすじは一体何年分に相当するのかという事を考えがちだった。
それが実年齢に相応なのか、不相応なのかということばかり考えていた。
社会的に求められる年齢像と、自分自身の成長幅の差に如何ともしがたい何かを感じると、
社会的に求められているのは所詮不特定多数の願望でしかないんだ、というところに行き着く。
そんな社会と自分との成長幅の摩擦は、あるときにはコンプレックスであり、
またあるときは人生の指針であった。

二十歳を過ぎてからは、あと何年「若者」で許されるのかという不安が頭をもたげてきた。
経過時間を指でなぞるよりも、行く先の見えない残り時間を引き算することが多くなった。
自分が若者かどうかという判断基準は常に、所属するコミュニティの相対関係でしかない。
だから大学卒業寸前や大学院修了寸前は年齢に対して一種の絶望さえ感じていたし、
いっぽうで社会に出てまもない現在は、さしてそこまでの絶望を感じているわけでもない。
歳相応か不相応かという心配は、他人の目線があってこそ生まれるものであり、
他人の目線さえ無ければ、元来年齢のことなど気に掛ける必要もないのだろう。
年齢に関して優越感にひたったり不安に苛まれたりするのは
他人を追い越したい、他人に負けたくないという欲求があってこそだし、
他人と競い合った経験を多く持たない僕は、その欲求をあまり多くは持っていないように思う。

いっぽう、僕は他人の目線の他に「過去の自分」の目線にも付きまとわれている。
同世代の人々に勝たなければならないという使命感を持たない代わりに、
去年の自分が成し遂げられなかった諸々を背負って生きているという実感がある。
無数の「いつかやってみたいこと」は、年齢をひとつ越えるたびにふるいにかけられ、
もう恥ずかしくなったからできないとか、他人の目さえ気にしなければまだできるだとか、
去年はあれだけやったんだから今年は是非それ以上に到達しなければならないだとか、
このくらいの年齢になればこんなことも許されるだろう、などと考える。
負け慣れた他人には負けてもいいと思っても、過去の自分には簡単に白旗を揚げたくない。
それは、これまでの戦績がそう思わせているのか、
「勝てるのが当たり前」だと思っているのかは僕には分からない。
しかし、それが年齢相応な理想像に向かおうとする向上心の
根本的な原動力であることは間違いないと思っている。

世の中を知ろうとすればするほど、それが何なのか分からなくなる。
何が正しくて何が間違っているのか、もう何が何だか分からない。
そんな世界がある日突然滅茶苦茶になって、バラバラになって、僕一人だけになったとしても、
何歳になっても、自分の誕生日という道標だけは平然と立ち続けているのだろう。

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