#4448

捨てる覚悟の必要性


今日の出来事 自分


2010年頃から最近までの自分は、
ものごとに熱中できない原因は「自分がその対象物に対して飽きたからだろう」
とずっと言い張ってきました。
つまりそれは対象物がいつも同じような見返りしかくれないので、
次第にその見返りに満足できなくなってしまうと。
しかし、果たして本当にそうなのだろうか? とふと考えました。

例えば2000年代の自分にとって最大の楽しみのひとつでもあった祖父母家帰省は、
何故楽しかったのかというと、まぁ親戚に会うことで特別な空気を味わえるから、
というのも無論大きかったのでしょうが、
「できることがごく限られて、かつ誰もが同じ方向に目を向けざるを得なかった」
というのが帰省の特別感を作るのに大きな役割を果たしていたんじゃないかと思うんですよね。
祖父母家はド田舎にあるので、当然ネットは無い、据え置きゲーム機も持っていくのは難しい、
せいぜい持っていけるのは簡単なアナログゲームと携帯ゲームくらい。
その携帯ゲームだって持っていけるソフトの数には限界がある。
1990年代まで遡れば、もっともっと制限されていただろうと思います。

そんな、何も無いと言っても過言ではない状況で、
世代間ギャップから雑談を長く続けるのも難しいようなとき、
親戚が「懐かしいから買ってみた」とコンビニで手にしたカードゲームを持ってくると、
その空間内で物凄い勢いで流行ったりするんですよね。
2009年の遊戯王リバイバルがまさにそんな感じでした。
つまり、今までの経験則からすると、
娯楽を探しているような状況でただひとつだけを与えられると本当に熱中できる。
昔は金銭的事情もあってコンシューマーゲームのタイトル1本を買うにも一大決心を必要としたので、
それがかえって熱中するきっかけにもなったんじゃないか……
というのは過去散々書いていますが、それはゲーム以外にも言えると思います。

金余りの時間足らずという現状は、「供給過剰」という言葉が
今の自分の意欲不足を一番良く言い表しているんじゃないかと思います。
とにかく風呂敷を広げすぎて後戻りできなくなってしまい、収拾がつかなくなっている。
最近なにかと些細なことでも「あっ、これ面白そう」と脊髄反射的に感じることが多く、
なんというかもう収束させようと思うと気力が要るので、そこから目を逸らして
ただ破滅的に風呂敷を広げることばかりに目を向けているような気がします。

2010年代の今は、ネットを通じて複数コミュニティに属するのが当たり前になっているので、
「この人たちに認めて貰いたい」「でも、あの人たちにも認めて貰いたい」
という風に自己顕示欲の方向を見定めにくいのも、
意欲減衰・迷走の要因になっているんじゃないかと思います。
でもあれもこれも両立したいというのは結局のところ非現実的な願いであり、
それだけを頼りに行動するのは難しいんですよね。
「いや、それでも両立しないと過去から受け継がれてきたものが無駄になってしまうから」
と無理矢理理想を目指したところで、今まで果たして実になったことがあっただろうか、と。

そういうわけでこれからは
積極的に何かを切り捨てることが重要になるのではないかと思う今日この頃です。

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