#4470

続・飽和の話


月曜日から日曜日まで平坦な道を歩くような日々に、
ふと、「今度から思い切ってこんなことをやってみるのもありかもしれない」などと考え出すと、
面白くて止まらなくなることがある。
ところが土曜日になっていざ籠の外に出てみると、
二連休では足りない、今はまだそれを決行する時期じゃない、なと言い聞かせている自分がいる。
変化したいという気持ちは確かにあったはずなのに、いっぽうで、
かたくなに変化したくないという気持ちもある。
自分で自分を責め立てるかのように、その一歩目を無理矢理にでも踏み出そうとしたとき、
ようやくその妄想の正体が変化したいという欲求ではなく、
ただこのルーチンの型にはまった生活から逃げ出したい欲求であることに気が付く。

僕はいつから何事にも理由や目的を求めるようになっていったのだろう。
いつの間にか、これをやったらこのくらいの見返りがある、と計算するようになり、
その皮算用によって数値化された “実績” は、
つねに過去との相対によって価値が決まるようになっていってしまった。
いくら情報社会の先端といえども過去最高に面白いものを毎日探し当てられるはずもなく、
皮算用は既に「飽きる」という感情を処理できる限界を超えている。

「これくらいの時間コストと金銭コストで、これくらい嬉しい思いをすることは妥当かどうか」
ということを無意識のうちに考えている。
それじゃあ物足りないと感じたとき、コストをそのままに何か他に手立てはないかと考える。
そうして徐々に、自由時間の現実的最大尺度である二連休という範囲内で、
おおよそ失敗しても取り返せる何かを追い求めることになる。
これに収まらないものは「いつかやるリスト」に入って、大抵はもう日の目を見ない。

昔の僕がこんなことを考えずに実行し、そして黒歴史を連発していたのは、
ただ単純に自分史に前例が無かったから、なのだろう。
思春期と比べれば出来る範囲が増えた今は、
やったことのある何かを苦労もせず引き出しから出してくるだけでも相当の選択肢があり、
それを選んでいるだけで多少なりとも満足感を得ることができるようになってしまった。
だからこそ、リスクの大きい全くやったことの無い何かになおさら手を付ける勇気が出ない。

ここでいう実績というものは、既存の自分が持っていない隙間を埋めてくれる何かであり、
それは他人に認めてもらうことだったり、他人を出し抜くことだったり、
あるいは過去の自分を追い越すことだったりする。それは自分自身の原動力に等しい。
型にはまった生活から逃げ出したいという新鮮な妄想が内燃機関だとすれば、
行動力はハンドルのようなものである。
燃料だけでは目的地は定まらない。方向を見誤ったまま突き進めば燃料の無駄でしかない。
しかし、燃料が無いと始まらないのもまた確かだ。

今の僕は、多量の燃料を抱えてその使い途に迷い途方に暮れている状態にある。
ハムスターが発電機能を持つ回し車で走り続けるような姿、と言ってもいいかもしれない。
だから連休に突入すると「このエネルギーを使わないともったいない」と気が急く。
気が急いてはハンドルを握るのもままならないということは薄々感じてはいるのだが、
時間的尺度のあまりの短さに、そこに意識を集中する余裕が無い。

世間一般から見れば僕もまだまだ時間的余裕を持っている方なのだろうと思う。
しかし、僕が持っている価値観は世間一般のそれではなく、やはり常に過去との相対しかない。
だから「学生時代ならもっと時間に余裕があったはずなのに」という不満がどうしても拭えない。
同じ時間尺度を持つ人にそんなこと無いよと説得されても、イマイチ納得できない。
それはまず何よりも、自分にとって “過去の自分” が何よりも発言力を持っているからだろう。

これから先も僕は「何かに飽きること」との戦いの連続になるのだろうと思う。
時間やお金を差し出せば向こうからやってきてくれる実績だけではいつか本当に限界が来る。
一歩踏み出すために恥を捨て、自尊心を捨て、自分を捨てる覚悟も必要になるのではないか。
そうやって突き進み、過去の自分の物言いに耳を塞いだ無音の世界に、
もしかすると子ども時代に戻れる「何か」が隠されているかもしれない。
そんなことを夢見ている。