#4500

金魚鉢の話


独り言 自分


僕たちは「空」という言葉を読んだとき、
頭のある決まった場所に青々とした空のイメージを思い浮かべることができる。
ある言葉に対して結びつくイメージ――シニフィエは
常に「青々とした空」だと決めつけることはできない。
人によってはそれは曇天かもしれないし、虹がかかっているかもしれないが、
何にせよその像が「空」という言葉と結びついていることは確かである。
そんな風に僕たちは「言葉」と、それとある像を結びつける力を授かってここに生きている。
そして何かを空想するための空間の中では、僕たちは常に自由である。

僕は「記憶」そのものについての像を思い浮かべるとき、
いつも巨大な金魚鉢で泳ぐ金魚になった風景を思い浮かべる。
真ん中に浮かんでいる僕の周りは常に水で満たされた真っ白な空間であり、
はるか遠くに球状のガラスの壁があるらしい。
僕の目の前には視界を埋め尽くすほどの巨大な白い建造物がある。
建造物には無数のドアがあり、ドアのすべてには鍵がかかっている。
そして、僕は手元にいくつかの鍵を持っている。
それは、いつでも想起できるように携えている「言葉」である。
言葉によってドアは開かれ、ドアの向こうにはまた別の鍵が置かれている。
そうやって頭の中にいる金魚は忙しそうに泳ぎながら、
記憶という名の水槽の中にある連綿とした言葉の鎖を辿っては、
興味のあるドアの中を整理したり、泳ぐ距離が短くて済むように鍵の置き場所を変えてみたりする。

連想ゲームのようにある分野の言葉の鎖を引きずり出す行為は、
ときとして現実世界を忘れさせるほどに夢中にさせてくれる魅力がある。
手元にある鍵のたったひとつが、無数のドアへと繋がっていることを知っている優越感。
それだけで自分自身が何か大きくなったような気分になれる。

生きていくうえで言葉は大事なものだ、ということを誰かに諭されたわけではなかったと思う。
けれど僕はいつの間にか、さまざまな「言葉」に心の拠り所を求め歩いていた。
視野が狭かったころは、本当にすべてのドアを制覇したような気になっていた。
見知ったドアを眺め歩いては、ドアに自分なりの部屋番号を付けようとしていた。
それが何か自分らしさに繋がると思ったのだろう。

そんな風に「記憶」の整理を進めていくうちに、
手元の鍵から新しいドアを開くために必要な労力がどんどん増していった。
開いても開いても見知った風景ばかりになると、金魚は泳ぎ疲れてしまうらしい。
だから定期的に最初に持つ鍵は変えておきたいが、その循環がうまくいかないことも間々ある。
いま、僕は諸々の趣味や実生活の過渡期にあって、
この鍵の循環がうまくいかない現象に突き当たっているような気がする。
すべてが行き詰まってしまったような、新鮮味が失われてしまったような無気力感がある。

そこで初めて、空想の中でなら自由である筈だということを忘れていたことに気が付いた。
ドアと鍵の組み合わせを整理しつつ、鍵を開ける順番通りに何度も往復しているうちに、
まるで「必ずこの順番通りに思考しなければならない」と言わんばかりに、
思考そのものが限られた線上の運動に限定されていた節がある。
昔は「泳ぐことそのもの」「知ることそのもの」が楽しかったから、
それに気が付くことができなかったのだろう。
かくて僕は今までに当たり前のように辿ってきた鍵の数々が、
客観的な世界から見れば取るに足らないものだということをここ数年で思い知らされ続けてきた。
最近ひとつの趣味に没頭できない理由の根本要因はそこにあるのかもしれない。

どうせなら、他人に認められるために鍵を開けるよりも思考の中にある自由を守り続けたい。
背後を振り返ると、相変わらず真っ白な空間がはるか向こうまで広がっている。
今までのことを何もかも忘れてしまうことは到底できないけれど、
それを棚に上げて新しい何かを空想してみる努力は必要なのかもしれない。
僕は自分自身を退屈させないために生きている、そんな気がする。

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