#4540

天邪鬼について


自分は昔から意識の矢を向けると却って解決が遠くなってしまうような気がしていて、
勝手に「あまのじゃくの法則」と呼んでいます。
例えばSNS離れを体感しつつあるときほど「他人ともっと接点を持ちたい」と焦るわけですが、
そうすると結果的に自分が孤独であることを再認識するきっかけになったりして、
あまりにもそれがみっともないとうんざりして考えたくなくなったりします。

「べき論は悪い」と言う人がたまにいます。
それは例えば人にはいろいろな価値観があるから、
自分にとってはこうあるべきと思うのが妥当というか当たり前であっても
他人の人生においてはそれは当たり前ではないのかもしれないから、
それを汲み取らずに一方的に「こうあるべき」と言うのは他人をないがしろにする危険性がある、
という主張によるものなのでしょうが、
結構これは完全に個人的に完結するような物事の思考についても言えるように思います。

「他人ともっと接点を持ちたい」という妄想は一見にして願望のように感じられますが、
実はそれは強く自分自身を束縛している “べき論” の変種なのではないか、
と最近よう考えるようになっています。
その願望を別の言葉で言い換えれば「他人と接点を持つべきだ」ということになるし、
頭の深部では、それを「他人と接点を持たない自分は愚かである」と評価している。
攻撃的な本能が自分自身以外に否定できる対象物を見つけられないから自分を虐めるしかなくて、
それでこういう風な自己分析になってしまうのかなぁとも思うわけです。
この辺は今までに捨てる覚悟を持たなかったこととも通じるような気がします。

今、自分はブログと脳内を直接繋ぐかのように頭に湧き出てくる懸念を次々に文章化しているため、
「接点を持ちたい」という一見願望のように見える思考の正体は自己否定なんじゃないかと考え、
実は接点を持つことそのものが今の自分にとって必ずしも必要ではないことに気付けるわけですが、
実際の日常生活において「こうあるべき」という思考はそれこそ山のように湧き出てくるため、
それらに対してこんな風に逐一言葉の変換をするのはなかなか難しいと思います。
目の前のテキストエディタに一旦アウトプットできるならまだしも、
一日の大半はそういう風にして思考を整理できるわけではないし。
先日、ブログを長く続けているとメタ認知が強くなるように感じる、的なことを書きましたが、
こんな風に言葉の綾に惑わされていることに気付くと、
まだまだ全然自分自身を認識できていないことを思い知らされます。

この辺はネット中心生活の弊害とも言えるかもしれません。
自分にとって都合の良い情報「だけ」を効率的に集められるようになると
拒絶する際の加減が分からなくなる危険性があるのではないか、
また、「みんな有益で当たり前」なのだから自分自身でその評価を下す必要が基本的には無く、
その結果情報のインプットだけは卓越した、判断出来ない頭が出来てしまうのではないか……。

と、今更のように現在の情報インプット・アウトプットに危機感を感じる今日この頃です。
“独り言” 的なテーマですが考え方がまったく定まっていないのでこの文体で書きました。
今後も同じようなもやもやを感じたらこの形式で書きます。