#4667

自分作りの話

例えば何かの試合で負けたとき。何らかの作業や仕事で失敗をしたとき。
心はすぐに逃げ場を探そうとする。
ここで負けても許してくれる場所についての情報を必死に頭で検索しようとする。
ところが大抵、それは見つからない。
すぐに見つかるような場合はそもそもここまで追い詰められないからだ。
見つからないと確信したとき、自分の心はすべてにおいて無防備になっている。
今、失敗しているその姿こそが自分の人生そのものであり、
目の前で自分を否定している者がまるで他人全体の代弁者であるかのような錯覚に陥る。
何故彼らは自分を受け入れてくれないのだろう。なぜ自分は今の状況に満足できないのだろう。
その答えを、かつては自分自身に求めていたものだ。
しかしそうやって攻撃の矛先を折り返したところで返ってくる答えは、
今までの自分の他人との関わり合いを蔑ろにしていたことが悪いだとか、
あるいは環境のせいだとか、要するに自分自身の欠点に行き着く。
そしてその原因が分かっていて、改善に向かわない行動力のせいなのだと。
「自分自身」に原因を求めたとき、それは「過去そのもの」なのだから、
今更何を足掻いたところで原因そのものを変えられないし、無かったことにもできない。
自分自身だけの価値観で悩むことは、過去の価値観に身を投じることであり、
その地点だけの視点から未来のことを考えることはとても難しいだろう。

自分の価値観は、自分と関わったすべての他人の価値観を少しずつ貰って成り立っている。
他人に学ばなければ、生理的な感覚以外は習得しようがないからだ。
つまり「過去そのもの」でもある「自分自身」は解釈を通じて他者から受け取った何かでもある。
僕がブログに無尽蔵に書き綴っている言葉のすべては、
いつかどこかで誰かに教えられた記憶の堆積を、上から順番に剥がして文章化しているに過ぎない。

だから、自分自身のすべてを否定されたかのような思考に支配されているとき、
その根本にあるものは他人の言葉なのではないかとも僕は思う。
お金を沢山得ることは幸福なことだ。
ゲームせずに勉強することは当たり前だ。
他人と協調し無報酬で助けることは偉いことだ。
より沢山の人と関わろうとする姿勢は凄いことだ。
成績が優秀であるということは頭が良いということだ。
そういった価値観をさも当たり前かのように教えられてきたことが、
それらを達成できていないときの自己否定感を形作っているのではないか、と。

過去の価値観に埋没して今の自分を肯定できなくなり、それに耐えられなくなってくると
何某かの過去の栄光を引っ張り出して
「本来はこうありたい」という思考が頭の中をぐるぐると回るようになる。
過去の記憶に足を取られている自分にとってそれは天から下ろされた一本の蜘蛛の糸のように映る。
しかしこれも自分の根底に固定観念としてこびり付いている、
客観的にあるべき姿に少しでも近付きたいがために起こる欲求だろう。
それも結局は現実と認知、あるいは自分の本意と「作られた理想」とのギャップが広がるだけで、
自己否定を加速させているに過ぎない。

つまり、この世を生きていくにあたって一人ではもう、どうしようもないのだ。
しかしだからといって自分は他人に助けて貰う代わりに渡せるものを持ち合わせていない。
このジレンマを抜け出すためには、何も貰わずに助けて貰える人と巡り会うしかない。
この結論を、「それは本来は両親であるべきで、
家庭環境のコミュニケーション不足が今の自分の協調性が足りない根本原因である」
と他人のせいにしてしまうのは簡単だが、それはやはり過去を掘り起こしただけで解決にはならない。
ただひとつ、ここまでに羅列した諸問題から解決の糸口を挙げるとすれば、
他人からの情報を得る際の自分の解釈の方法に何らかの不具合があるとして、
それを是正することができれば少しは良い方向に歩み寄ることができるのではないか、とは思う。

僕はこの一週間で、近年の自分には圧倒的に他者承認が不足しているからこそ無気力なのであり、
それを受け入れてくれる場所を探すことが生活において先に解決するべき問題なのだろう、
と考えて手に取れる範囲からさまざま考えた。
その結果、それが容易に解決できる問題ではなく自分は想像以上に孤独だということに気が付いた。
仕事も趣味も、自分の椅子が無いわけではない。しかし満たされているという実感も無い。
それは最初、ただ単にマンネリがもたらした心の変化なのだと思っていたが、
どうやらもう少し深刻な問題であるように思える。
何が深刻かといえば、今までのように考え尽くせばスッキリするという確信が無いばかりか、
一人で考えれば考えるほど泥沼になることが目に見えているということだ。
今までひたすら考えて文字に起こすことで解決しようとしてきた自分にとってこの壁はとても高い。

また、今の自分は期待している自分にはなれない、何も楽しむことができないという自己否定感は、
こうして突き詰めて考えると、それは自分が嫌いだからこそ陥る心理状態というよりは、
自分の価値観を大切にし過ぎたために起きている問題でもあるように思う。
いずれにしても、価値観や自尊心の問題であるとすれば、
それは世間的に若いと言われるような年代であるうちに解決を見たい問題ではある。

十代の十年間は大人になることとはどのようなことかを考えるためのモラトリアムだった。
二十代の十年間に与えられた課題とは、それを踏まえてただ発展したことをするのではなく、
前の十年間で作り上げた古い価値観を点検してもう一度イチから作り直すことなのかもしれない。
果たして今の僕には
作り上げた目の前の山を切り崩し、その向こう側にあるはずの景色を見る覚悟はあるだろうか。