#4714

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社会生活は学生生活と違って向こうから卒業年度を突き付けられるわけではない。
そのため、一年を超えるスパンで将来の自分を考えることにおいてさえも、
たいてい大きな決断力と行動力とを必要とする。
年齢という基準すら、周りに同世代がいなければ非常に曖昧なものになる。
だからここ近年は年齢に実力が伴わないことに対して日常的に思い悩むことは減った。
それゆえに、実際にこうして実年齢が繰り上がる日を迎えたとき、
自分がいかにして何も考えずに一年を過ごしてきてしまったかを突き付けられることとなった。

二十代前半の僕が「大人」というキーワードに対して出した暫定的結論は、
「子どもの思い描く大人というものはその時点の価値観だけで構築された『大きな子ども』である」
というものだった。単に社会的に自立するといったありきたりな大人の条件は、
少なくとも未成年時代の僕には視界には無かったらしい。
子どもの頃に描いていた大人像を年齢的に追い越してしまったあと、
その後何年かは、次はいよいよ三十路なんだというところに視線を奪われていた。
奪われてはいたが、具体的に30歳までにやるべきことというものがいつまで経っても見えてこない。
そのため、最近の僕は一年を超えるスパンの目標を持たないままでいた。

二十代前半にやるべきことは何だったのだろうか、と今改めて想いを馳せる。
それは子どもの頃に思い描いていた空想にまみれた大人像を、
現実というふるいにかけて「大人の夢」に昇華することだったのかもしれない。
僕はこの点において、心のどこかで子どもの頃に描いていた像と現実とを
まったくの別世界のもののように考えていた節がある。
確かに僕の十代はあまりにも視野が狭かった。
それこそゲームしか目に入らなかったような時期もある。
だから社会を前にして、十代を基礎として夢を考えるにはあまりにも手札が乏しいように思えた。
僕にとっての二十代前半は、十代までに見ることの敵わなかった風景を
年甲斐無くもう一度見渡すための五年間だったのかもしれない。

ではそれらを踏まえて二十代後半にやるべきこと、
ひいては30歳という節目の具体的な目標とは何なのだろう。
まずは社会的自立。それから恋愛、結婚、育児といった他者との共存、といったところだろうか。
趣味でも仕事でもそれ以外でも、ともかく自分ではなく他者のために奔走できる自分でありたい。
こんなこと「無理だ」と断言できる。今の自分には不相応過ぎて笑いすらこみ上げてくる。
しかし、同時に今の自己承認のみに頼る人生観ではどこかで行き詰まるであろうことも、
この近年で薄々感じていることでもある。

そしてそれは、もっと幼い頃に思い描いていた
「大人によって刷り込まれたあるべき大人の像」に非常に近しいものを感じる。
いろいろな人に背いて、自分一人で考えて考えて、考えつくした結果行き着いた目標は、
かつての大人に言われていた「ありきたりな大人」そのものだった。
夢を見定めずに過ごしていた今までの僕は大人未満の地点を周回しているだけだったのだ。
当然それに時間的損失は感じる。年齢不相応であるという自覚もある。
何故大人の意見を素直に受け止められなかったのだろうという憤りもある。
けれど、もし今この時点がまだスタート地点以前の段階であるというのなら、
もう一度だけ、子ども時代のような夢を見ることを許されたい。