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美食家とコレクターの狭間


日本では16日にリリースした『スーパーマリオラン』、ちまたでは賛否両論のようで。
App Storeレビュー平均は2.0/5で★1の数が突出しています。
不満の多くが、1-3までは無料、1-4以降からは一括1,200円の課金が必要という
その値段設定に対する批判のようです。
リリース以降、TwitterのメインアカウントTLを流し読みしていると、
App Storeで低評価を書き殴った人たちに対する
ゲームファンからの痛烈な批判がよく見受けられました。
商品レビューという場で根拠の薄い、無責任な書き込みを行うことへの是非というのは
Amazonとか食べログとか価格.comとか、
ずっと前からECサイトを中心に定期的に炎上している問題で、いい加減なんとかならないのか、
とこういうニュースを見るたびに思うものです。
なのでマリオラン炎上問題についても第一印象は「またか」の一言のみでした。

ですがこの問題はネットに根ざす無責任レビューだけの問題じゃなくて、
ゲーム文化の存続維持にかなり関わってくる深い問題のようにも思うんですよね。
「1,200円は高い!」と文句を言っている人が大多数なら、
本来ゲーム業界にとってゲームをプレイして欲しいのは真っ先に彼らであるはずです。
「1,200円というのはパッケージタイトルに比べれば驚くほど安い」
「この丁寧な作り込みでやり込み要素もふんだんにあるのに1,200円程度の価格に文句を言うな」
というのは本当にゲームが好きな、でも少数派の意見に過ぎないわけです。
マリオを知らない非ゲーマーにもマリオを遊んで欲しいという願いが
今回のタイトルにあったとしたら、率直に言って今回のマーケティングは失敗だったと思います。

「4,500円の10連ガチャは躊躇無く回すのに1,200円のアプリには文句言うのは間違っている」
と★1レビュアーを批判する人もチラホラ見かけましたが、
1,200円程度に躊躇する人と10連ガチャを回す人は全く異なる層だと思います。
そもそもパズドラに代表される日本のソーシャルゲーム文化に重課金する人は
ゲーム全体のユーザーのうち1%以下と言われており、
少額の課金経験ユーザーを含めても全体の3割程度に過ぎないのだそうです。
(参考:[PDF] スマホゲームの動向 – 三菱総合研究所、消費者庁:2016年03月24日)
つまり残りの7割は、ソーシャルゲームはするけれど無課金を貫いているという層。
これが今回の「1,200円は高い!」と言っている人たちと割合的にも重なると思うんですよね。

こんな極論を言うとソシャゲも好きなゲーマーに叩かれてしまうかもしれませんが、
自分はソーシャルゲームはコンシューマーゲーム文化とは異質なものだと思っています。
「ゲーム性とは何か」という漠然とした問いに対して
いろいろ考えてまだ上手く結論がまとまっていない段階ではあるのですが、
ゲームっていうのは作り手が様々な遊び心を少しずつ関連性を持たせながら複雑に絡み合わせて、
音楽、映像、静止画、あるいは文芸といったいろいろな芸術を複合させながら作る
いわゆる体験型芸術の一種だと思うんです。
それらのバランスの良さと、ほどよいレベル調整が噛み合っているときにだけ感じることのできる、
あの「ついにここまで来た」という感覚を味わえる喜びに、
一種のゲーム性というものが封じ込められているのではないかなと思います。
つまり、ゲームは何が楽しいかって制作者側が意図的あるいは偶発的に設定した目標に向かって
突き進んでいく過程に散りばめられた世界観に浸れるのが楽しいわけです。

ソーシャルゲームはそういった過程は基本的にはあまり重視しない傾向がある代わりに、
その世界観における「現時点の最強」がすごく分かりやすく提示されているわけで、
それを手に入れれば勝者、という誰にでも明確な目標でありゴールがあります。
自分も2012年末から何作か国産ソーシャルゲームをプレイしてきましたが、
やっぱりそこで重視されるのは概ねキャラクターに対する愛情であって、
その背景だとかそのユニットに固有の能力だとかというのは後付けの解釈でしかなく、
確かにキャラクターは好きだけど
それを手に入れるまでの紆余曲折を楽しんだ例はついぞありませんでした。

蛇足ですが、手に入れると大体それで所有欲が満たされて満足してしまうらしく、
その後は急激にそのゲーム自体の熱が冷めてしまうことも少なくありませんでした。
なにしろ「現時点の最強」は物凄く早いスピードで入れ替わっていくので、
好きなキャラクターを見出したときはトップレベルの強さでも、
新キャラが出てくればそれの完全下位互換であることは少なくないんですよね。
ステータスの高さがすべてのゲームでは下位互換の存在価値は全くないわけで、
そうなると見た目が好きなキャラでも切らざるを得ない日というのはすぐにやってきます。

両者を比較すると、ゲームはどちらかというと消費する娯楽だと思います。
ちょっと語弊があるかもしれませんが料理みたいなもの。
完成品を眺めていたり、
テレビで他人が食べているのを見ているだけではその本質(=賞味)にはたどり着けないわけです。
対してソーシャルゲームは自分的にはどうしても骨董品や硬貨、切手といったような
自分で価値を見出すコレクターアイテムのようなイメージが強いです。

『スーパーマリオラン』の1,200円は「課金」というよりはパッケージ版の購入代金みたいなもので、
ゲームを楽しむための過程を売っているに過ぎないんですよね。
それを楽しめるのかどうかは購入者次第。
書籍だって音楽アルバムだって買うまでは中身が分からないのが当たり前で、
「開けてみたらハズレだった」という現象はどんな界隈にもあるはずです。ゲームも同じ。
だけどソーシャルゲームはそれを持っていることがステータスになる「結果」そのものを
ガチャというブラックボックスを通じて売っているに過ぎなくて、
この辺になんというかそもそも売る物の違い、売り方の違いを感じるわけです。

なんか収拾着かなくなってきたのでこの辺で強制的に切り上げますが、
ともあれ買う以前から「1,200円は高い!」と★1レビューを付ける人がこれだけ多い現状は、
ゲームというものは作り手の意図に沿って過程を楽しむものではなく、
自分のコレクションアイテムを見せびらかすためのツールであり、
課金はそのステータスを買うだけための一手段として考えている人が多いのではと感じました。
そしてもしその感覚が当たり前になってしまえば、
あと数年経ったらもっと本格的に若者のゲーム離れみたいな状況が起きて、
ゲーマーと言えばゲームを使ってパフォーマンスできるプロフェッショナルのみ、
そして一般大衆は見るだけの人になり、
買う人が減ったら市場そのものが縮小してマイナーものが作られなくなってしまうのではないか……
といった危惧がないわけでもないです。