#4767

否定する話


独り言


他人に対してストレスを感じるときというのは、
その他人に対して主張したいことが発生し、他人に対して伝える機会を逸したときにこそ起こる。
他人に主張したいことそのものはストレスの要因ではなくて、
他人に対して言いたいことがあるのに、なんらかの理由で伝えられなかったことこそが
憤りを感じる直接の要因になる。
例えばそれが「自分のコミュニケーション能力が無いせいで伝えられなかった」
と思えばストレスの矛先は自分自身に向かうし、
「自分の発言機会を阻まれたせいで伝えられなかった」と思えばその他人の評価を一方的に下げたくなる。

そしてそれらは蓄積する。他者に対して言いたいことの保留が多くなりすぎると、
頭はその解釈を要約して簡略化してしまおうとする。
簡略化された主張は、いわば思い込みの集大成である。
自分にとっては重大に感じても、他人そのものからは乖離していることが多い。
だからある程度この思い込みが蓄積して他人に対しての憤りが大きくなってきたとき、
ふとその他人本人と言葉を交わしたときに、
自分がいかに思い込みで他人を評価していたかを思い知らされ、
心にあった大きなわだかまりを取り除かれたのような気分の良さを感じることがあるし、
逆に協調性などさまざまな問題あって誰ともコミュニケーションを取れない(取らない)人は、
周囲の小さな不満を一身に抱えた爆弾のように見える。

社会を見渡すと、自分ならやらないようなことを平然でやってのける人が沢山いる。
それを目撃したとき、道筋を立てて「それは間違っている」といちいち説明することは無粋だと思うし、
自分ならそれはやらないという正義自体が、
自分自身の歴史の上にかろうじて立っているか細い信条に過ぎないことはよくある。
だから、その人が正しいのかどうかなどという判断は一個人にはできないだろうし、
何が正義か分からなければ、他人に対して注意したり指摘することは難しい。
そういった迷いの拠り所に、例えば法律だとか倫理だとか常識といったものがあるのだろう。
だから他人を否定することは無学にとっては難しい。

正当に他人を否定したり指摘することは、その人の考えに入り込んでいく行為であると僕は思う。
その人に対して教えたいことがあり、知りたいことがあり、共存していきたいと思わないと、
ふつうは他人をいちいち否定したりはしない。
社会はそうやって他人に否定されたり肯定されたりしながら、
いろいろな人の視点を獲得していくものなのかもしれない。

僕は今まで「肯定されることは良いこと」だと思ってきたし、
その裏で自動的に「否定されないことは良いこと」「否定されることは良くないこと」だと思ってきた。
だから叱られれば人格否定されたかのように自尊心はズタズタに引き裂かれ、
受験の失敗といった岐路ではやり場のない気持ちに押し潰されながらも生きてきた。
小さな否定に対してさえも、上に挙げたようなストレスによって振り回され、
特に思春期においては、本当に他人に何を否定されたのかが分かっていなかったかのような節がある。

しかし今改めて立ち返ってみれば、自分の道徳観や社会観、人間観は常に正しいとは限らない。
否定することに対して否定的で、自分の人生や他者をすべて肯定的にとらえてしまうと、
ふと自分の人生はこれで良いのだろうかという思いに至ったとき、
ここまでに至る道のどこにも否定できる余地がないために巨大な行き詰まりに突き当たる。
他人に伝えられなくてストレスを感じたときに感情の裏にある論理を認知することや、
日常的に少しずつ否定されることを受け入れられるようになることは、
そういった行き詰まりを回避する効果があるのだろう。

僕は万人と仲良くしていく必要はないと思っているし、できるとも思わない。
どうしようもない人をどうにかしようとする義理はないし、
まったく主義の異なる人の意見すべてに耳を貸す必要もないと思う。
しかし本当に伝えたい相手が現れたとき、
十分に自分の気持ちを伝えらずにお互いにわだかまりを抱える関係にはなりたくない。
そのためにこれからも、この伝達能力という大きな問題と付き合い続ける必要はあると思う。

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