#4780

知ることの先にある何か


空想


会話をすることにおいて、
「否定されるかもしれない」と思うと自発的な発言は引っ込むものです。
最近の自分は、自分は人一倍否定されることに慣れていないのが問題なのではないか、
などといろいろと思い悩んでいる節があるのですが、
いくつかの会話のシーンを思い返してみると、知識の差が結構これに関係してそうな気がします。

自分よりも知識を持っていると分かっている相手に納得して貰うのはとても難しい。
なぜなら、自分が説明するべき言葉には自分だけが知らない定義が含まれているかもしれず、
それが発言のアキレス腱になってしまう危険性を常に孕んでいるからです。
自分の知らなかった部分を突っ込まれてしまうと、自分の主張そのものが否定されたように思う。
そこで初めて自分と相手との知識量の差が地雷みたいなものだと思い知り、
次の一歩を踏み出すのにどうしても躊躇してしまう。

こういうことって結構日常的に起こりうると思うんですよね。
だからこそ雑談は多少語弊があっても突っ込まないのが暗黙の了解になっているのではないかと。
簡単な言い間違いを突っ込むといかにも突っ込んだ方が野暮というか、
空気読めない子になってしまう場面ってありますよね。
それって誰でも否定されたり否定したりということばかりだと疲れてしまうということを
表しているんじゃないかなと。

また、飲み会などで周りを格上ばかりだと会話に参加できないような場合を考えると、
「自分の知らない言葉を狙われて突っ込まれることが面倒くさい」
という恐れを必要以上に抱いているから発言できないだけで別に喋れないわけではなく、
同じ場所で周りが自分より格下だけだったら饒舌になれる人はいると思うんですよね。
よく会話が苦手な人が「疑問文にすれば喋れる」と言うのはこの辺が関係しているのかも。
まぁ、自称コミュ障というか他人と接しなさすぎる利己主義者の場合、
自分の憶測を否定できなくて結果的に他人からの情報流入を避けているというのもあるでしょうが。
そういう人こそを世の中は「頭が悪い」と言ったりしますが、
この辺は本当に他人事じゃないので恐いところです。

そういうわけで、自分が知識を受ける側である場合は、
まぁ今のところ教えられる側に徹して他者承認を満たすのは諦めるのが無難かなとは思いますが、
それはそれとして、もし自分が教える側になった場合に、
相手の発言機会を奪わないような発言態度をいかに取るか、
ということの方がゆくゆくは大事になってくるんじゃないかなぁと改めて感じました。
大人と子どもの会話の鍵を握っているのはどちらかと言ったら、やっぱり大人でしょうからね。
知識探求は一生涯続けていくことになるでしょうが、そこに謙遜の態度を持つことがいかに重要か。
あるいは知識をひけらかすだけの歩く辞書にならないために何が必要か。
自分はまだまだまだまだ無知なので
こんなことを考えるのは時期尚早すぎると言ってしまえばそれまでなのですが、
この辺にもう一歩先の人生観についてのヒントが隠されているような気がします。

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