自分たちゆとり第二世代は、義務教育期間にひたすら「ゲームは教育に良くない」と言われ続け、
自分はそれに反抗する形でずっとゲームを続けてきたうちの一人です。
そんなゲーム趣味も立ち位置が怪しくなってくると、
こういう受験シーズンになるたびに「何故自分はあんなにゲームをしていたんだろう」
と黒歴史に思いを馳せることがあるのですが、今日は改めてそれらについて考えてみようかと。
よく、ゲームは一日何時間までが妥当か、みたいな話を家庭教育の分野で耳にするし、
小中学生時代も「ゲームは一日1時間!」と、よく学年だよりなどに書かれていたものでした。
ゲームが子どもの発達に悪影響を及ぼすなどとまことしやかに言われていた時代、
「ゲーム脳」などという似非科学が流行ったりもしました。
(このワードで検索するとゲームファンには胸くそ悪いアンチゲーム派の主張が出てきます)。
今ではもはやファミコン世代が子育ての中心世代になってしまったので
そんな似非科学は流行っていませんが、
「ゲーム」が「スマホ」に形を変えただけで依然として同じ問題は在り続けています。
何故ゲームが教育に悪いのか。
ざっくり言えばふつうは学校・家庭でコミュニケーションを取ることで昇華するはずの承認欲求を
すべてゲームを通して処理できてしまうからなのではないかと思います。
イマドキのゲームは、やり込み系にせよ、『スプラトゥーン』などのようなオンラインゲームにせよ、
自分の頑張りを認めてくれる人は常にゲームの中の世界にしかいないわけで。
一昔であればローカルマルチプレイが中心だったわけですが、
それだって認めてくれる相手は(ゲームをしているときの)クラスメイトに限るわけで、
いずれにせよ「ゲームをしていない相手」と
コミュニケーションを取る必要が無くなってしまうんですよね。
だからゲームにハマるほど世代間コミュニケーションが磨り減っていってしまうし、
社会では当たり前とされている倫理観・道徳観・社会観が伝えられずに思春期を越えてしまう。
これは偏見ですが、自分含め小中学生時代にゲームにのめり込んだクラスメイトは、
話を聞いてみると家庭ルールが非常に厳しかったり、
求められる成績のハードルが高かったりといった事情のある子が多かったように思います。
それらを頑張ってもどうせ認められないと思っているからこそ
ゲームに助けを求めている人が多かったという印象。
最近、「スマ放置」とか言って
未就学児にスマホを触らせることが問題提起されたりもしましたが
(参照:情報端末 未就学児の利用、半数超に – 毎日新聞)、
これも「ゲーム」が「スマホ」に代わっただけで問題の本質は変わっていないように思います。
要するに、親のスキンシップというか「これはしろ」「それはするな」という期待と、
子どもの欲求との食い違いにあるように思うんですよね。
だから、これはもう前々から思っていたことですが
「ゲームは一日1時間!」とか言ってゲームをする方にまで規定しようとするのは
まるで逆効果なんですよね。そもそも原因は親の間違った期待にあるのに、
これ以上子どもをルールで束縛してどうするんだという。
ゲームは09時から18時までという家庭ルールのもとに育った結果、
どうしようもないゲーマーに育ってしまった自分が良い例だと思います。
1990年代はゲーム、2000年代はゲームと携帯、2010年代はスマホという風に、
その時代ごとに子どもの承認欲求のはけ口は目まぐるしく変わってきているので、
おそらく自分が中年のおっさんになる頃には、
自分が受け入れられないような謎の文化がゲームやスマホに代わって台頭しているんでしょうね。
そのときに自分が育児をしているのかどうかは分かりませんが、
大人側がそういった文化を受け入れられるかどうかというのが鍵になっているような気はします。