#4800

街路樹の話


独り言


何の変哲も無いある会社からの帰り道、
信号機を待っているとふと向かい側の歩道脇に植えられた街路樹に目が行った。
まだ冬に入る前の頃だったから、緑色の葉が風に揺れていたのをよく憶えている。
僕は信号を待つかたわら、それが当たり前に「在る」ことの不思議を考えた。
何故僕はそれを「緑色の」「街路樹」であると認識できるのだろう。
本当にそれはそこに在るのだろうか?
自分の勝手な解釈に過ぎないのではないだろうか?

例えば先天的な色覚異常を持っている人には「緑色の」何かには映らないかもしれない。
街路樹を植えるという文化に生まれ育ってこなかった人にとっては
それを街路樹であるとは認識しないかもしれない。
極端な例では、木の育たない気候に住む人にとってはそもそも「木」であると認識できないだろう。
つまり僕が認識している緑色の街路樹らしい何かは、蓄積された既存の知識によるものであり、
すなわちどこかで誰かから教えられた――確実性に乏しい――概念上の何かに過ぎない。

それは街路樹だけに留まらずさまざまな事象、突き詰めれば「自分」に対しても同じことが言える。
一年前、仕事がオーバーワークの連続だった頃、
すでに深夜残業できる一人として数えられていた僕は、
連日徹夜覚悟でひたすら最後の一人まで黙々と作業をしていたことがあった。
ある日、たまたま年配の社員が手伝ってくれることになり、二人で黙々と作業をしていた。
二人でと言っても慣れ親しんだ間柄ではないから、話をしながらするわけではない。
必要が無ければ言葉を交わすことも無く、部屋は切羽詰まっているはずなのにとても静かだった。
そして僕が無我夢中でひたすら作業を進めていったあるとき、
年配の社員が作業が一段落したことを報告するために久しぶりに僕の名を呼んだ。
そのときに、我に返ってから真っ先に感じた感覚があった。
「ああ、自分という人間は確かにここに在ったんだった」と。

コミュニケーションにおける自己分析モデルのひとつに「ジョハリの窓」というものがある。
これによれば対人関係において「自分」は次の四つの「窓」から認知できるのだという。
(1)自分には分かっているが他人は分かっていない「隠された自分」(左上)、
(2)自分にも分かっていて、他人にも分かっている「公開された自分」(左下)、
(3)自分には分かっていないが他人は分かっている「盲点の自分」(右上)、
(4)自分には分かっておらず他人も分かっていない「未知の自分」(右下)。
これを格子状に配置したとして、四つの窓の中心点と各面積は個々人でそれぞれ異なっている。
多くの場合は開放の窓と秘密の窓の面積が大きいと感じることだろう。
しかし、社会上の「自分」が評価を受けるのは実は上半分だけなのであって、
「盲点の窓」にいかにして気付くかということが自己分析では大事なのだ――
ということを、僕は2014年にとある人に教わった。
その考え方は確かに社会生活を続けている今現在の礎になっている。

そしてそれは対人関係だけでなく、より単純なものへの認識にも同じことが言える。
僕が緑色の街路樹を見て「あれは緑色の街路樹である」と確信できたのは、
これまでに受容してきた文化の中にある開放されている知識と自分の知覚とが紐付けられたからだ。
しかし、自分には提供されていない街路樹についてのさまざまな知見もあるだろう。
それは自分にとっては盲点であるし、
自分が他人に話さないその街路樹に対する思い入れなどがあれば、
それは秘密の窓に近いものであると言える。
ここでもやはりどこに重点を置くかによって見えてくる現実は大分異なったものに見えるだろう。

自己分析に限らず、物事を見定めることにおいても、
今の自分がまず四つの窓のうちどれを認識しようとしているのかということを、
知覚してから決めつける前の行程で判断できるバイパスのようなものが必要なのかもしれない。
直感は常に自己中心的で、「自分の知らない何か」という視点が欠落していることが多い。
太陽を中心に生きているこの世界には常に日向と日陰があるように、
目の前の物事には必ず「自分の知らない何か」が隠されている。
広大な世界の中で刹那的に生きるたった一人にとっては、
無限に溢れる「知らない何か」をひとつずつ自分のものにしていくにも限界がある。
だからこそ、いつも知らない何かがあるという視点を、
素直に受け入れる覚悟が求められる段階にあるとつくづく感じる。

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