#4823

非充実の定義


自分


最近は休日の非充実感が半端ではなく、それに悩んでいるのですが、
そもそも「非充実感」って何なのかという途中経過を書き殴っていきたいと思います。

日常を書き綴るこのブログでも、
執筆現在4,822本中66本の記事に「非充実日」というタグが付いています。
割合にして1.37%と聞くと物凄く少ないように感じられますが、
これは、このタグを付ける条件が「文字通り何もできず保留中のネタも無い一日」だからです。
例えば生活リズムが崩壊して一日中眠かったとか、
前日明け方まで起きていて、起きたのが日没後だったとか。
昔はなるべく当日の出来事を書くという暗黙のルールがあったので
見た目上の非充実日の割合も多かったように思いますが、
近年はそのルールは解除しているため、本当の非充実日でも書いていないネタがあれば
そっちを書いて当日の充実度は書かずに終わってしまう傾向にあります。
そもそも非充実日のたびにいかに充実していなかったかを書くだけのブログなんて
他人はおろか自分も読み返したくないですしね。
最近その傾向が若干滲み出ているんじゃないかという話はさておき、
実際に非充実であると感じている割合は近年の方がよっぽど大きいんじゃないかと思います。

昔は、例えばブログ黎明期なんかは
ニンテンドーDS発売30日前になったというだけで記事一本書けるほど充実感がありました。
「30日前を迎えた」というだけで何もしていなくても今日は良い日だとよく思えたものです。
今、例えばもっとも期待する何かの発売日が目下に迫っていたとして、
やっぱりその日何もしなかったら、発売30日前という期待感よりも、
まず何よりも「今日何もできなかった」という負の感情が前に出てくるのではないかと思います。

翻って、非充実感とは何なのか。
それは何をもって充実したことになるのかという線引きがあるからこそ感じるものであって、
非充実日を言い換えれば「自分が設定した『充実したと言える領域』に達しなかった一日」
と定義することができます。要するに自分が(こうありたいと願う)自分に勝てなかった日。
休日二連休でこれくらいはやるべきだ、という縛りが自動的に決まってしまい、
それを二日間以内にクリアできるかどうかという意識が強いと、
時間がとても貴重なものに思えてきます。そうなると結果的に時間を無駄に捨ててしまうという。
これはとても不思議なことですが、
貴重な時間は然るべきことに使われるべきという意識と、
その然るべきことに着手する意欲が十分でないギャップから強い葛藤が生まれてしまい、
結局そのしがらみを片付けるのに膨大な時間を使わざるを得ないんですよね。

充実していたかどうかという線引きが個々人によるものである場合、
つまり自分はぐっとハードルを下げれば無条件で毎日が充実したものと認識することもできるはず。
それが出来ないのはおそらく慢心というよりもむしろ、
自分の人生をより充実させたい、昨日の自分を越えたいと願う向上心のせいなんでしょうね。
そういったものが凝縮されて一種のプライドになり、
いつの間にか「休日はこうするべき」というべき論でもって自分を規定してしまうという。
このカルマから脱出するにはどうしたらいいんでしょうね、本当に。

2009年前後からずっと形作ってきた計画信仰とも言うべき自分のライフスタイルは、
ここにきてそろそろ見直しの段階に来ているのではないかとつくづく感じます。
自分以外の人たちは充実日のボーダーラインをどういう風に認識しているんだろう。
そもそもここまで来たら充実したことになる、
というような意識はあまり持たないのが普通なんだろうか?

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