#4830

思い込み対決


空想


なんかこう、自分の考えを詰めていってこれは間違いないなと思ったものが、
信念と言うにはちょっと格好良すぎるけれど確かにそれに近いものが累積していくのを、
ここ数年ふつふつと感じているわけですが。

自分の中では確かにそれはおおよそ間違っていないだろうと感じる。
しかしそれが他人にも通じるということを他人に確認していないのでイマイチ自信が持てない。
自信が持てないとそれが他人に話せない要因になったりして、
結局のところ持論というものは何か外に押し出す力が無いと袋小路に行き詰まってしまうようです。
持論を他人と切磋琢磨できる環境にある人は恵まれているんだろうなと。

そんな行き詰まり感のある無数の持論を日々こうしてブログに吐き出しているわけですが、
ふと、お風呂の中であれやこれや考えていたら、
持論同士が矛盾しているために行動が抑制されることもあるのかなという持論に行き着きました。
例えば趣味をすることにおいて、
自分はどこかで「あまりに広く手を付けすぎるとすべてが中途半端になって何も楽しめない」
と思っている節がありました。
これはここ十年の音楽やゲームに対する姿勢なんかを見ても確かだと思います。
これに反したせいで最近は随分と積みゲーが増えました。
しかし同時に、「まずは触れてみないと何が楽しいのかも分からず何も楽しめない」
というのも感覚としては正しいと思うんです。
ネットに触れているとそれはもう無数のコンテンツと出会うわけで、
ひとつひとつをよく見ていくと「ガッツリ着手できれば楽しそうだな」と思うようなものばかりです。
しかし、大抵はそう思ったところまでがそのコンテンツとの縁で、
実際に触れることは無いという。単純に持ち時間が少ないという意識のせいもあるでしょうが、
それ以上に、今新しい何かを手にしたら既存の何かを手放さざるを得ないんじゃないか、
と中途半端を恐れているというのが実際のところだと思います。

広く着手してしまうとすべてが中途半端になって楽しめない。
けれどまずは触れてみないと何が楽しいのかが分からない。
各一行ずつだけを見るとそれぞれ確からしいことを言っているように聞こえてくるけれども、
こうして続けて並べてみると意外とあっさり解決策が出てくるもので、
要するに取捨選択の問題なんだろうなと。
中途半端で楽しめないのは
「(興味あるかどうかも分からないけれど)(他の人もやってるし)まずやってみよう」
という程度の姿勢で物事に着手するからで、
ひとつに使うエネルギーが少なければ余力が生まれるわけで、
それを使い切れなければコンテンツを消費しても退屈いう名のわだかまりは残ったままになる。
これが「広く浅く」手を付けた後の何とも言えない虚しさの正体なのではないかと。

まず触れてみないと分からないという方は
二つの持論を付き合わせても今のところ正しいままだと思います。
ただこれも程度の問題があって、今の生活は知るだけならあまりにもハードルが低いので、
相対的に実際に触れようとすることに対するハードルの高さはあると思います。

だから「何事も楽しめない」という問題に突き当たったときは、
まず目の前の興味ありそうなものの数を数えてみる。リストアップしてみる。
実は興味ありそうで興味無いものもあるかもしれないので思い切って取捨選択する。
それでも残ったものを片っ端からがっつりやってみる。ハズレたらドンマイ。
みたいな割り切りの良さがあるといいんじゃないかな、と。

実践できるかはさておき、最近自分の思い込みの集大成が思いのほか通用しないことがあって、
そのせいでやや心理的に虚無感が増してきている感じがします。
今回みたいに一見どちらも正しいようだけど両立するとおかしなことになりそう、
といった二項対立を重ねていけばもう少し自分の中の考えもまとまってきて
よりシンプルな生活ができるようになるんでしょうかね。
矛盾の発見を進めていくためにもさりげない思いつきをメモする癖をもう一度考え直してみるか。

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