#4837

幸福について


空想


まだ自分なりの考えがまとまっていないのでうまく言語化できるか分かりませんが、
いわゆる幸福論に繋がってくるようなことについての思案の種をいくつかメモ。

ネット時代の今は、発声コミュニケーション能力やリアルのコネを持っていなくても、
主にTwitterなどのSNSを経由して、
あらゆる人の(その人にとって都合の良い)気持ちや考えに接することができます。
対面コミュニケーションでもある程度取り繕ったり盛ったりすることはできますが、
書き言葉の場合はその度合がさらに高まって性別すら曖昧なままコミュニケーションが取れるので、
それは間違いなく「素のその人」ではなく、
多くの場合は発言者に都合の良い事実しか知ることができません。

なので自分からみたタイムラインは多くの場合現実そのものではない、
ということに留意する必要はあるのでしょうが、
それでも人によっては取り繕うよりも素の自分を見て欲しいという思いが先行していて、
あらゆる愚痴やヘイトをTwitterにぶちまけている人がいます。
それは例えば世の中、家族、学校など所属するコミュニティに対する不平不満、
あるいは自分自身に対するそれであったりします。
場合によっては、その人が受け入れられない何かをわざわざ引きずり出してきて、
自分はこんなものは受け入れられない、間違っている、と主張することで
ヘイトを敢えて曝け出すことで同じ思いの人を探そうとしているような、
そんなアカウントを見かけることもあります。
自分をフォローしている人にはほぼいませんが、パブリックタイムラインやキュレーションメディア、
あるいは検索結果を見るとたまにそういう人を見かけます。

そういった「第三者に不満をぶちまけている他人」を見ていると、
確実に「人が何かを受容できる幅」にはそれぞれ人の出自や性格、環境や考え方によって幅があり、
しかもそれはその人自身によっては容易にコントロールできるものではないように思えてきます。
そしてある考え方しか受容できない人は、
いろいろな考え方が混在するこの社会において生きづらくなることは確実だろうし、
逆にあらゆる考え方を柔軟に受け取れる人は単純にコネも作りやすいだろうし、
様々なコンテンツを純粋に楽しめるだろうと思うんですよね。
むろんどちらが正しいというわけではないと思います。

受容できる幅が少ないことでそれに専門特化できるという強みが生まれ、
逆にあらゆるものを受容したところで没個性的になるという恐れが生まれるわけで。
しばしば特化型で狭い分野の中でしか自分を発揮できない人にとっては、
社会的に生きられる(いわゆるリアルが充実した)人を羨ましく思っていて、
彼らこそが幸福に生きている人であるように思っているかもしれない。
リアル社会を見ていると、あたかも後者こそが社会に歓迎される人であるように感じられるからです。
それも当然の話で、受容できる幅が広い人ほど対人関係で無駄な衝突が少なくなり、
逆に「これしか受け入れられない」といういわゆる頑固な人ほど、
いろいろな考え方の衝突が起こりうるからです。そんなのを周りがいちいち配慮するのも面倒くさい。
頑固な方の考え方に合わせなければ接することができない人よりも、
そういう配慮の必要がない人に人望が集まるというのもまた自然の流れなわけで。

だから、社会に認められたいという欲求を重きに置く場合においては、
やっぱりいろんな考え方を受け入れられる方が有利であることは間違いないんだろうなと。
しかし逆に、社会とは関係無い場面ではこの関係が逆転することもあるかもしれません。
他になんの取り柄も無い一点特化型は、自由時間さえ与えられればそれに夢中になることができる。
没個性的な社会人にしてみれば、何をするにしても他人との共存が第一であるわけで、
もしかすると一人になってしまえば何も出来ない空虚な状態になってしまうかもしれない。
そういう視点からしてみれば、
他人が介在しないところで無条件にモチベーションを発揮できるのは強みになりうると思います。

自分自身はどちらかというと専門特化型に近いと思っているので、
やはりコミュニケーション能力がものを言う現実社会では劣等感を感じることは間々あります。
しかしそれそのものが幸福かどうかという物差しとして妥当かと言われると、
もう少し考える余地がありそうな気がしています。
ことあるごとに自分と相容れられない意見を引っ張ってきては叩く人たちを見ていると、
個々人のより良い在り方というのは、
自分が受け入れられる範囲をどうするかというよりも、
むしろ受け入れられない意見に対してどうやって付き合っていくかという問題のように思われます。
受け入れられないなら見なければいい。見てしまっても意見を言わなければいいのではないかと。

とはいえ今のこのネット社会では大抵は大波のように向こうから押しつけがましくやってくるもので、
「嫌なら見るな」が通用しなくなっている世の中でもあると感じますけれどね……。
この言い知れぬ寂しさと不必要な情報が入り乱れる世の中において、いったい幸福とは何なのか。
向こう十年くらいで自分なりの結論を出せるといいのですが。

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