#4848

活字との付き合い方


備忘録


外山滋比古『乱読のセレンディピティ』(扶桑社文庫、2016年) を読みました。

いつまで経っても身につかない読書癖にやきもきしながらも、
今年は週間50ページを目標に「とりあえず読んでみる」ことを初めてみて、
今のところ意外なほど読めていると感じている今日この頃。
しかし、問題はこのペースで読んで果たして自分は教養を得ることができるのか?
あるいは選んだ本に間違いはあるのだろうか?
そもそもが「読書の方法」なんて学生時代にしっかりと習った記憶がないわけで、
本当に自分の読み方は妥当なのだろうか、という不安が漠然として活字の前にありました。

そんな矢先、先日の東京旅行の最終日にフラッと入った本屋で見つけたのがこちらの本。
『思考の整理学』が話題になっていたことも記憶に新しい外山先生の新刊ということで、
タイトルからいかにも読書そのもののヒントが隠されていると感じ、
二日間で一気に読んでみました。

*  *  *

タイトルにある「乱読」とは、精読しない読書、一冊にこだわらない速読的な読み方を指します。
そして「セレンディピティ」とは、(探しているものとは別の)良いものを偶然発見すること。
本書は、現代におけるより良い本の読み方の提案として、
ひとつの本、ひとつの分野をつぶさにみて博覧強記を目指すよりも、
より多方面の本を短期間で読むことに重点を置き、
まったく異なる分野同士に触れて回ることを勧めています。

そもそも何故読書と聞いて身構えてしまうのか。
そのひとつには、ことさらに読書勧奨を主張する学校教育に原因があるようです。
つまり現代人は学校教育を通じて「読書は良いもの」という思い込みをさせられているし、
もっと言えば「読書によって良い教養を得られなければならない」とさえ考えている節がある。
しかし世の中にある膨大な量の本は、すべてが名著であるとは限らないわけです。
良書のみを読まなければならないとすれば、
毎日膨大な量が刊行される現代において、それは選定の段階で大変な労力を伴うものになります。
だから「乱読」する必要がある。これだと思うものを買って読んでみて、
こりゃ面白くないなと思ったら遠慮容赦なく途中で切り捨てるべきだというのです。

乱読と熟読が相反するものとだとすれば、
乱読は本に対してマクロ的視点、熟読はミクロ的視点を持っていることになります。
言葉はそれひとつでは成り立たず、文章になってはじめて意味をなしえます。
じっと文字を見ていてもどうしても理解できないことがあるようなものも、
声に出して読んでみると意外とすんなりと「そういうことか」と思ったりするものです。
また、全部理解しなければならないと気負って本を読む場合、
全部理解しながら進んでいるように見えて、
実は分からない部分を読者の解釈によって補填しているに過ぎないことが間々あります。
こういう読み方だと、しっかり分かったつもりになっていても、
読了後に他者に説明を求められると実は全然分かっていないことが分かったりします。
乱読では基本的に読書中のメモも積極的には取りません。
「理解しなければならない」という義務感は捨てて、ただ読むだけに集中します。
そうやっているといかにも読んでも何も残らなそうなものですが、
全体を俯瞰しつつ読むことで自然と重要なセンテンスが残りやすくなります
(実際自分も本書をざっと読んだだけですが、意外なくらい本の内容は頭の中に残っています)。

本書はまたいわゆる2045年問題にも少し触れています。
(参考:技術的特異点 – Wikipedia)
そもそもコンピュータがこれだけ発達してヒトの記憶力の片棒を担ぐようになった現代において、
コンピュータよりも遙かに劣る記憶力しか持たない人間がコンピュータに張り合って
ただ知識を詰め込むだけの「専門バカ」になってしまうのは馬鹿げているし、
未だ学校教育は記憶量が多い博覧強記的な人を優遇し、独創的な人を卑下するような風潮さえあり、
それはもはや時代錯誤なのではないかと言っています。
このままでは2045年を迎えるまでに人間の役割は完全にコンピュータに取って代わられてしまう。
ただひとつ、当面はコンピュータにできそうにないこととして、
著者は「おしゃべり」を挙げています。
分野・思想などの異なる人間同士の話し合いにまさる知的活動は無いだろう、と。
乱読のセレンディピティの有用性も、
まさにそういった異文化同士の掛け合わせによる化学反応の中にあります。
ひとつの本に執着しないでさまざまな分野の本を連続的に「読みあさる」ことによって、
ある本だけでは見えてこなかったことがふと浮かび上がってくる。
これはひとつの専門分野だけを偏食する人やコンピュータには真似できない知的活動です。
知識を得る活動だけでは、人の好奇心もいずれ限界がやってきます。
だからこそ、いかにして得る教養に創造的な意味を持たせるか。
そのために必要なのが様々分野を横断的に読みあさることであるというのです。

*  *  *

本書後半のセレンディピティに関することは『思考の整理学』と重複する部分もありましたが、
全体として高校当時の読書文化に対する違和感をスパッと切ってくれるような論調で、
それはある意味痛快なところもありました。
自分なんかはまさに、読書=良いものとして疑ってこなかった人間の一人です。
高校時代は読書推進のひとつとして「朝読書」などというものもありました。
どうやら読むことそのものが良いらしいけれど、結局自分は読書を通じて何を得ればいいんだ、
という疑問は当時明文化できることもないままに読まされていたわけですが、
ただなんとなく、名著と呼ばれるような国語の教科書に載る作品は
「正しいことを言っている」という暗黙の了解が国語の授業中にはあったと思います。
そういえば大学院時代はどちらかというと著者の言うことを鵜呑みにするなと言われたものです。
読者があって初めて書物が成り立つというくらい「読み手」の地位を高く見ていて、
いかに批判するか、そして批判した内容をどうやって検討していくかが大事なのだと。
これはどちらかというと精読的な読書方法だと思うのですが、
本に対する距離的な捉え方は本書にも通じるところがあるのかもと思いました。

本を“年下の友人”になぞらえて、少し上から目線的につきあっていくのも面白いかもしれません。

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