#4876

肩身の狭い正道


文化


大分前ですが、今よりももっと体感的につらい日々を過ごしていたとき、
わりと真面目に喫煙者になろうかと思っていたときがありました。
ニコチンの量は段階を踏むものらしいので、
その一番小さいところを少しくらいだけならすぐに依存症にはならないだろうと。
結局それは実現には至らなかったのですが。

喫煙はいわゆる「カッコつけ」ではないと自分は思います。
むしろ平成の価値観では徹底してタバコを吸わないことこそ「カッコつけ」なのだろうと感じます。
それはおそらくタバコ=かっこ悪いものという家庭・学校環境のたまものなんだろうし、
そうでなくても、成人してから世間を見てみると、
喫煙者は肩身が狭いというのが当たり前の共通認識になっています。

であるにも関わらず、敢えて格好悪い喫煙者になろうとするのは何故か。
これは意外と奥が深いのでここでいろいろと言い切るには話が大きすぎるのですが、
要は当時の生活のみならず、今の生活もしかり、
既存の文化的な娯楽ではどうしても満たされないと思うことがあるからなんですよね。
今の世の中は少し探せば一生をかけても楽しみきれないほどのコンテンツが、
しかも安価で転がっているわけで、それ自体は恵まれていると思います。
コンテンツを買うお金がなくて苦しむことも、そういえばもう長らく味わっていないような気が。
だからこそ供給過剰に陥っているというのもあると思いますが、
しかしそれだけコンテンツが溢れていても心が満たされないときというのはあるわけです。
コンテンツが溢れかえって、インプット量が物凄く増えた反面、
個々が主張する機会というのはかなり踏ん張らないと得られなくなったように思うんですよね。
これが好きだ、と言っただけでは当然のように同じことを言っている人がいて、
それだけでは「自分」の主張は圧倒的多数に埋没してしまう。
だから「いかに自分を認めて貰うか」ということに重きを置く価値観の場合、
この供給過剰で相対的にアウトプット過少な状況が続くと
徐々にフラストレーションが溜まっていってしまいます。

そのように主張そのものが認められないで溜まっていくストレスは、
言葉にする、という文化的な行動によって昇華するのは難しいように感じられるんですよね。
だからこそ、もっと原初的な、生理的な欲求を満たすことでその代償行為になりやしないか、と。
もしかしてタバコが、この心に溜まり続けていく「何とも言えないもやもや」を
言葉ではない形にして吐き出せるツールになるのではないか、と。
それは、言葉によって解決を見ようとしてそして行き詰まった自分には救いになるかもしれない、
と考えたんですよね。いや、当時からここまで考えていたかどうかは微妙ですが。
とにかく満たされない自己顕示欲を生理的なところから埋められるような気がしたんです。

当時は結局のところ金銭的な理由から断念したのですが、
今の生活もなかなかに満たされないことが多いので、
このままマンネリが続いて、あらゆるコンテンツでも難しいと悟ったとき、
喫煙はもしかすると最後の手段として選択肢に入る日がくるかもしれません。
あるいは飲酒か。あるいはもう少し健全そうなイメージのある生理的欲求を満たす何か……
たとえば運動とかになるんでしょうかね。
なにはともあれ、カッコつけで文化的な何かだけで人生を埋め合わせようとするのも
なかなか限界があるんじゃないかと思う今日この頃です。

コメントを残す