#4900

ひとりの話


独り言


先月の旅行を決行するにいたった際、自分の頭の中にわだかまっていたものを今鑑みると、
それは「自由であることの不自由な息苦しさ」と、
「すべてが満たされない何とも言えない寂しさ」の二つが
混ざり合っていたものだったように思う。

大型連休は会社に束縛される必要がない。
会社に束縛されない自宅で過ごす時間は「自由である」と感じるが、
実は本当の意味では自由ではない。
そこにあるのは「会社には来なくてもよい」という事実だけで、
僕ができることは、僕のできる範囲内の何かに制約されている。
その制約を、九連休なら飛び越えられるのではないかという幻想を抱いてはみるが、
倫理的・知識的・物理的・心理的条件の諸々によって、簡単に殻を破れるようなものではない。
したがって連休計画は既存のなにかから選んで数えて、その妥当性を点検するところから始まる。

タスクとして指折り数えられる「既存の何か」は、「自分が知っているすべて」ではない。
子どもの頃にしていた遊びをまだ覚えているからといって、今もそれに夢中になれるとは限らない。
ずっと抱いている夢があるからといって、現実味があるとは限らない。
既存のなにかから物事を選ぶときは、今の自分の欲求が満たされるかどうか、実現可能かどうか、
という推測のもとにふるいにかけられる。
通過する物事の数はその時点の心理状態に大きく左右され、
10個以上残ることもあれば1個しか残らないこともある。
さらにそこから、今回の連休になるべくタイムリーな何かをと思って選んでいくと、
場合によってはまったく残らないようなこともある。
往々にして、(期待に反して)心が満たされていないときほど残るものは少ない。
心が満たされていないときほど沢山の選択肢が欲しいにもかかわらず、現実はそうではない。
現時点の意欲が正直に吐き出したそれらを眺めたとき、
「連休はかくあるべき」という自分の中に持っている及第点をそれらが下回ると、
心はひどく虚しさを感じるようになる。

虚しい連休でありたくないと思ったとき、
記憶の奥底までを再点検して、少しでもその隙間を充足できるものを探そうとする。
そんなとき、僕はその答えをいつもインターネットの中に求める癖があった。
時間が十分にあるとき、ネットを使って着手しようと思えば本当にさまざまなことができる。
あらゆるコンテンツを楽しむ手段は一通り揃っているし、
自己承認・他者承認を満たしたければ、ちょっとした交流ができるサイトはいくらでもある。
のみならず、絵画、ゲーム、作詞作曲、果ては動画制作まで、
クリエイティブなことをやろうとしたとき、現代はその最初の一歩に必要な労力が限りなく小さい。
どれもこれも大したお金をかけずに始められるし、いつでも辞められる。
ネットを通じて評価してくれる人と出会える可能性はどこどこまでも広がっている。

その「だれでも・いつでも・なんでもできる」という触れ込みが、
しかしかえって選択を難しくしているように感じる。
金銭的なハードルは簡単に越えられても、すぐに意欲という名の壁を意識することを余儀なくされる。
むろん、先人の作ったすばらしいツールの数々は、
別に意欲のない人のために作られたわけではないだろうから、
そのハードルがあること自体の是非は問うまでもないと思う。
しかし僕としては、「選択できない選択肢」を知ってしまうことは、
今時点の自分がいかに無気力であるかということを突き付けられているような気がして、
ことさら虚しくなる。
どこを向いても「自分一人の限界」を意識せざるを得ず、苦しくなる。

だから今回の旅行のことも、まずインターネットの世界から離れることで、
ネットが見せる「やろうと思えばなんでもできる」という幻想から
逃れたいという意図があったのだと思う。
インターネット・コミュニティの世界は一見して自由でいろいろな可能性があるように見えて、
選ぶ覚悟のない人間、立ち位置の決まっていない人間からしてみれば、
無数の匿名ユーザーに埋没する自分がただあるだけの息苦しい空間にすぎない。
何も出来ない人が求められていないのは、現実社会となんら変わらないのである。

という考えに至ったとき、この何とも言えない虚しさは「孤独感」なのではないかと思いを馳せる。
孤独であると感じるとき、それはまず他人との意思疎通ができなくなったときに感じる。
そして自分は必要とされていないのではないか、という無力感が生じたときにも感じる。
それはしばしば「自分ではない誰かが、第三者に必要とされているように見える」ときに起こり、
劣等感や嫉妬心を伴うものである。
自分から好きこのんで一人しか居ない空間に赴いたときには孤独であるとは思わない。
むしろ一人でいることが許されているときは安心感さえある。

また、自由であることの不自由さから生じる自己不信感は、
「自分はこうあるべきだが、今の自分はそれを満たしていない」という感情から生じる。
さらにもとを辿れば、「こうあるべき」という線引きは、
孤独感を感じたときに周囲にいる「孤独ではないであろう他者」を基準にしているように思われる。
周りの人間が羨ましい、ああいう風にありたいという理想に自分を重ね合わせると、
それを満たしていない自分という存在を否が応でも自覚してしまう。
それが孤独感の正体なのではないか。

――だから孤独感から逃れたいと欲するなら、孤独になればよい。

もちろん人間関係は世間様の言う通り、大事なものなのだろう。
他者との関係が教えてくれるのは、社会常識であり、あらゆる知識であり、
またときとして自分の人生の指針でもある。
他人との関わりがまったく入ってこなかったら、自分を動かすのは常に自分の欲望だけになる。
自分だけの力で自分を制御することほど難しいものはない。
もしそんなことができたら、今頃休日計画程度のことでこんなに苦しんでいない。
だから他人と関係を持つことは大事だと、今も思う。
しかし、すべての人間関係がいつも健全だとは限らない。
ある他人を思い浮かべたとき、自分の孤独感を煽ってくることのほうが多いと感じたならば、
彼らを見限ってみる覚悟もときには必要になってくるのではないか。
それは例えばことさらに社会的ステータスについて語りたがる人種である。

改めて周囲の人間を見渡してみても思う。
ある人が「孤独感」に苦しんでいるときは、その人が一人ぼっちであるということが問題ではなく、
むしろその人の意見を訊く耳を持たない周囲の不健全な接し方に問題があるのではないか、と。
それはおそらく、その場限りの環境だけではなく、
性格形成の段階で通ってきたさまざまな環境の影響もあるだろう。
「社会にとって良い人間になりなさい」という大人たちの価値観を刷り込まれた子どもは、
それを受け取るために自分自身の「こうありたい」という像を犠牲にしているのかもしれない。
自分自身の本意を育ててこなかったからこそ必要以上に他人の価値観に振り回され、
それこそが社会と相対的に満たされない不安感、すなわち「孤独感」の根本的な原因なのではないか。

僕たちは生まれたときから最後の瞬間まで「一人」であるという事実は今も変わらない。
他人と繋がっていると感じたならば、それは言葉などの文明の利器がそう思わせているだけである。
本当の本当の意味で、僕たちはお互いに解り合うことはない。
そして、生まれたときは等しく自由であるはずである。孤独感を感じる余地などなかったはずだ。
だから、一人では生きられない、他人と共存しなければならないと思ったならば、
それがすでに言語やお金、国や街といった“不自然な制約”の思う壷の中なのではないか?
一人では生きられない、だからみんなで助け合って生きていこうという「ありがたいお言葉」が、
実は僕たちの生き方をひどく限定しているのではないか?

*  *  *

今、僕の目の前には用意された砦の中で藻掻いてでも自由を獲得しようとする道と、
砦を出ることで自由を獲得しようとする道の二つがある。
大人にとって望ましい道はもちろん前者なのだろう。
しかし砦の中にいる人数が多すぎて、そこに分け入っていくのにはとても勇気が要りそうだ。
そこに突っ込んでいったら「自分」を見失わないか、と不安になる。

そこでふと気が付いた。そういった不安な感情はそもそも自分と他者を比較してこそなのだと。
他人なんて所詮解り合えない相手と比較したところでどうしようもないじゃないか。
自分の理解者は結局のところ、自分しかいないのだ。
「一人」でいるときにそんな慰め言葉が聞こえたかと思うと、
ようやくあの連休計画のときにわだかまっていた何かを忘れることができたのだった。

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