#4911

否定的精神について


空想


抽象的すぎることに悩むのも良くないと薄々感じつつ、
それ自体が悩みごとの主要テーマになりつつある今日この頃。
今日は『なんでもかんでも否定したくなる精神状態』への対抗策について考えてみたいと思います。
執筆開始時点では自分なりの考えはまったくまとまっていないのですが、
しかし最近、これに悩まされることが多いのは事実です。
それでいろいろと「これは嫌だな」と思ったときのことをあれこれと思い返してみると、
まず第一に「自分の言うことを聞いてくれないであろう相手」が
関わっていることパターンが多いように感じられます。
言うことを聞いてくれない、と一口に言ってもいろいろとその原因はあると思います。
本当に文字通り言うことを聞いてくれない育児中の家庭にとっての子どものような存在から、
テレビやネットを通して相手の主張を聞き入れることしかできない、雲の上の存在まで。
あるいはコミュニケーションの機会があっても、
自分か相手どちらかのコミュニケーション能力の不足で意思の疎通ができない場合。
とにかく、外界に対して「自分はこう思う」ということを自分の納得する手段で外界に出せないとき。
あるいは「自分ならこうする」ということを納得してくれそうにないとき。
そのフラストレーションを覚えている限り、
他のことでその人と接する機会があったとしても、
「こないだのあの意見について批判したい事があるのに、それを言うのは無粋だろうなあ」
と、相手とのその場のコミュニケーションに集中できなかったりする。
要するに、あらゆる他人に対する評価や伝達がいちいち消化不良に陥ってしまっている状態。

ここまでの分析は“独り言”でしばしば言及していることなのですが、
かといって他人との接点をシャットダウンすれば良いという話ではないことは明らかです。
しかし都合の良いことだけを吸収し続ける環境があり得ないこともまだ自明の理であり……。
そもそも何故自分は「伝えられない相手」にこれほど悩まなければならないんだろう、
と思うわけです。その原因さえ突き止められれば大分楽になるのかもしれない。

「発言そのもの」「存在そのもの」にさえイラッとしてしまうほどの人はなかなかいませんが、
それでも過去皆無ではありませんでした。
学生時代はそういう目線で身近な他人を見ることはごくまれでしたが、
その代わり、自分自身が受容できないある種の文化に対して嫌悪感をあらわにすることはありました。
例えばインドア趣味がまさに形成し始めた中学時代で言えばいわゆる体育会系、
アンチゲーマーであるところの教職員等大人一般、あるいはクラスメイトの女子全般。
要するに、自分が受け入れられたことがなく、受け入れられることを想像できない身近な文化や属性。
彼ら・彼女らは自分が今突き進んでいる方向とはあまりにも角度が違うので、
まるでそれを肯定すると自分自身を否定するように錯覚してしまっていたのかもしれません。

つまり、他人というものを自分とは違う何か対極的なものとして認識していたから、
自分というものを肯定し、維持していくための営みとして「他人」を否定していた……?
以前もネガティブシンキングを突き詰めて「自己防衛」に行き着いたことがありましたが、
これも似たようなものなのかもしれません。
確かに他人に対する苛立ちには少なからず嫉妬心由来のものが多いように思います。
他人の行為という「事象」そのものに対してこうあってほしい、こうあってほしくないと思うのは
純粋な他人に対する興味や期待があってこそだと思いますが、
自分の場合はそんな崇高なものではなさそうです。
SNSや実生活で日々無数に見る「他人」が単純に多すぎてストレスが溜まるのかとも考えましたが、
どちらかというと、それによって自分自身が埋没することへの危機感なのかも。

この考え方からすると、例えば既存のコンテンツや
その続編や周辺界隈に対して無性に否定したくなったときは、
それ自体への興味の有無よりも、
それを否定することによって肯定したい何かが自分の中にあるのだろうなと。
ここでいう「何か」が何なのかは現時点ではうまく説明できませんが。

というわけで、おもむろに外界を否定したくなって憚らないときは、
それを否定することで肯定される何かが自分の中にある可能性に少し目を向けてみることで、
あるいは世界の見方も少しは変わってくるのかもなぁ、という妄想でした。

コメントを残す