#4915

語彙力の対極


短絡的な考え方かもしれませんが、
いわゆる語彙力とコミュニケーション能力は相反するものなのではないかと思うんですよね。
自分はこうやって日々雑文を書き続けていているわけですが、
今使っている言葉が難解かどうかという基準は、
特に意識しなければ「自分が知っているかどうか」に左右されるのではないかと思います。
より細かく言えば、何歳になって意味を知ったか。
最近の言葉ほど難解のような気がするし、逆に幼少期から知っている言葉は
(一般的に常用するものではなくても)自分にとっては簡単な言葉として数えたくなる。

書くことは、読むことに比べれば効率は非常に悪いものの、
それでも「こういう気持ちやモノを表現する言葉ってないものか」という探究心がある限り、
そしてそれをすぐに調べられる環境がある限り語彙力は徐々に伸びていきます。
本当に少しずつですが、自分自身も4900本を超える記事を書いてきて、
未だに知らない言葉に出会っては試しに使う機会があったりします。

ところが、そういった「自分のための文章」というものは、
読み手がこの言葉を知っているかどうかという目線で言葉の難しさを量る必要がありません。
自分が知ったらその時点で使えるという点ではとっても気楽です。
他人との対話においては、基本的にお互いが知っている言葉しか使えません。
言葉の定義をいちいち教えれば意思疎通することもできなくはないですが、
それは伝達よりも高度な「教育」という作業であり、
教育界隈をざっと眺めても分かる通り、それは大変な労力と知恵が必要になってきます。

いろいろな人とのコミュニケーションに抵抗があり、そういったことが不得手だと自覚する場合、
想定する相手の持つ語彙と自分の持つ語彙の最小公倍数的なキーワードを選んで話さなければ、
という意識よりも、しばしば自己顕示欲が上回ってしまう傾向があるように思います。
難しい言葉を知っていることがそのままステータスにもなり得るわけで、
その誘惑はかなり強いんですよね。

ただそういったスタンスで話すとすぐに「伝わらなければ意味がない」ということに気付くので、
賢明な人であれば自分の語彙をもう一度選定する作業に取り掛かるはずです。
でもこの作業って、よくよく考えてみるとけっこう難しいと思うんです。
そもそも「誰もが知っている常識的な語彙」ってどこからどこまでを指すのかとか。
何歳ならこれくらいの言葉は知っているだろうという常識も時には通用しないこともあり、
その人個人と接してみないと本当の語彙力というものは分からないものです。
だから最初は明らかにこれくらいは知っているだろう、
という範囲から手探りで広げていくしかありません。
普段からこんなことを意識しているわけではありませんが、
こうして考えると自分たちはかなり高度なことをしているのではないかと改めて思った次第です。
と同時に、難しい言葉を知っていることそのものをステータスに思っていいのは
せいぜい思春期までで、これからはぜひそれを伝えられる説明力を軸に考えていきたいですね。
……説明の機会がこれからもあれば、の話ですが。