#4922

否定を否定する話


最近何もかもうまくいっていない、と感じはじめたのはいつだっただろう。
あれから僕は「昨日の自分」を追い越したことがないかもしれない。
月日が経てば経つほど自分にとって手に負えない、どうしようもない問題のように思えるそれは、
例えば年齢だったり、置かれている境遇だったりといったものにいかにも原因があるように思える。
これらを解決して人生を謳歌している人はなんて崇高なんだろうと思える。

そんな風に「他人一般」を見上げるようになり、いつしかそれが当たり前のようになっていた。
それ自体がもはや僕のアイデンティティーの一部といってもいいかもしれない。
劣等感が自分をどうにもならない卑屈な精神に落とし込むようなときは、
そもそも「自分も崇高な人間になりたい」などという精神は持ち合わせていない。
そうやって外界と自分との相対的な位置を、これだ、と決めつけて生き続けてきた。

だからこそ、前向きになろう、ならなければならない、と思うと苦しくなる。
そのままじゃダメだ、と咎められたとき。あるいは、否が応でも他人と比べざるを得ないとき。
こちらには他人を見上げている程度こそが自分だと認めてほしいという気持ちが常にある。
損するのは自分を卑下している自分だけなのだから、その論理自体は否定されたくない。
その論理こそが、自分が否定され得ない最後の砦だと思う。
それ故に、卑屈な人を不必要に持ち上げることは無粋なのではないか、とさえ感じる。
じっさいにはそのように主観的な判断だけで自分や他者の立ち位置を決めることこそが無粋なのだが、
僕が自尊心が欠損しているときはその感覚を掴みづらいらしい。

他人が自分より背の高い人しかいない世界では、
自分が何らかの分野で秀でることがないのは「当然」だと考える。
それどころか、過去のあらゆる記憶を遡ると、
(精神が悪化し続けているという自覚がある場合、)自分の背丈は日々縮まっているようにも思える。
だから、他人のみならず過去の自分さえも、もう追い越すことができないように感じられる。
そのようにしてランキング最下位の世界に居ることに慣れてくると、
これ以上自分を否定したくないという思いから、
なんとかして自分が勝てる方法はないものかと気が急くようになる。

自分が勝つということは、他人が負けるということに等しい。
勝ちたいという気持ちが「勝たなければならない」という気持ちに変化すると、
些細なことがすべて勝負事のように思えてくる。
自分の負けている部分を見せつけられると惨めになるし、
他人の否定できる部分を見つけると、それを指摘して勝ったつもりになりたくなる。
あらゆる他人の行動を否定したいという気持ちは、
このように自分や他人の行為の結果を「勝ち」か「負け」という両極端な判断で判断することで、
負けてきた数を意識せざるを得ない現実の認識方法に問題があるのかもしれない。

惨めな気持ちになるときは、常に相対的に惨めでない「他人」を想定しているときだということは、
これまでに書いてきたあらゆる悩み事に共通する部分でもある。
しかしこのように考えてみると、
そもそもの原因が自分自身の経歴や境遇といったどうしようもない問題よりも、
外界を認識する方法に欠陥があるのかもしれないという思いはある。
しかし、現実問題として、目の前の現象に対して
逐一「自分自身の捉え方に問題があるのではないか?」と分析する時間があるわけではない。
ゲームならポーズメニューを出せば落ち着く時間があるかもしれないが、現実はそうもいかない。
従って、脳内回路は短絡的短期願望であるところの「他人に問題があるはずだ」的論理に行き着く。
そうやって目の前の物事を自分のせいにしないように考えた方が気持ちは楽だ。
自分が常にあらゆる他人と比べて劣等な存在であるという前提において、
その考え方を換言すれば「自分より優秀であるはずの他人が問題解決した方が賢明である」となる。
自分より優秀のはずなのに何故解決しようとしないんだ、と考える。
その気持ちを放っておくと「こうありたい自分」と「優秀であるはずの他人」が重なり合い、
自分の期待通りにいかない他人の行動に苛立ちを覚えるようにさえなってくる。

目の前のことを考えずに保留しておく。
あるいは、「それは真だが、偽かもしれない」という中立的な考え方にとどめておく。
今の僕に必要なのはそういった、現実に即したより良い保留の仕方なのかもしれない。
以前、心に負荷がかかり、何事も選べなくなってしまうのは「保留の数」のせいなのかもしれない、
というようなことを書いた。
それも継続している物事を「勝ち」か「負け」の二極で判断したい気持ちがあればこそであり、
綺麗に終わらなくても良いという考え方を受け入れられれば、
選択に対するプレッシャーもそれほど大きくはなっていなかったかもしれない。

この一週間、僕はとある出来事をきっかけに、
このブログにこれまで書き殴ってきたことが、実は外界から見たら取るに足らないのではないか、
という思いから、惨めさが爆発したかのような不安感に苛まれていた。
仕事中、あるいは平日中は何ともなかったものの、休日に入って不安感が表面化した。
自分が考えていることは自分が考えている仮定のうえでしか成り立たないことであって、
他人からみたらいかにもすでに崩れかけている砂上の楼閣のようなものなのではないか、と。
過去の思考が客観的に破綻しているならば、
その大部分を前提としている「これから考え得ること」も同じようなものであり、
僕はそれを明確に取っ払って新しい考え方を受け入れる方法を知らないし、
これから考えることそのものを否定されたら、もはや生きるすべがない。
僕は、考えば考えるほど客観的に正しい論理観から離れていたのだろうか?
そこに至ったとき、一瞬とてつもない空虚感が襲ってきた。
これからはもう書く作業は無意味かもしれないとも考えた。
じっさい、外界(あるいは他者の主観)から見てこのブログが
仮定で塗り固められたいびつな論理ばかりに見えるのは事実なのだろう。
そもそも僕はこの文章を他人のためには書いていない。

しかし他人のためにならないからといって、それが辞めなければならない理由にはならない。
ここまで書き下してみれば、自分の中の思考をアウトプットする前の段階に、
無意識下で両極端に判断を下そうとするプロセスがあることを自己観察することができる。
それをリアルタイムで捉えていくにはどうすれば良いか、
というところに、この問題の光明があるように思える。
僕はこの文章を書き始める段階では、もう自分自身の何もかもが矮小に思えて、
それを久々にブログに吐露せずにはいられないほどの精神状態になっていた。
が、ここまでを書いてみて、みるみる気分が楽になっていくのが自分でもよく分かった。
書くことで楽になれるのは、ブログを書いてきたことのアドバンテージのひとつだと思う。
それ自体は客観的にどのように見えようが否定できない主観的事実である。
しかし同時に、書かなければ心の整理をできないことは、時間的障害を抱えているとも言える。
心の中に、ある種ブログ的なメモ帳を作るにはどうすればよいのだろうか、
ということを、これからも自分なりに考えていきたい。