#4964

利己心について


空想

前記事で、交際相手ができたことを報告してきた人間に対して
自分の倫理観では悪者だとぶった切りましたが、
冷静に考えてみれば一般的な価値観とはズレていると思うので、
この記事では改めて自分がいかに世間一般の感覚とズレているのかを考えてみたいと思います。

大分前に「リア充爆発しろ」などというネットスラングを生み出しているように、
ネット上では夏は花火大会、冬はクリスマスに、
現実世界を敷かれたレールの上で謳歌する人たちに対する醜い嫉妬の声が
毎年のように溢れかえっていたもので、前記事のそれもこの一部に過ぎません。
その内側にはきっと自分もそうなりたいという願望や、
突き詰めれば今の人間関係では満足していないということが浮き彫りになってくるわけですが、
そっちの方向に掘り下げると自虐も甚だしいのでその辺は別の日に考えるとして、
しかし悪くない人を「自分の倫理観では悪者だ」と言ってしまうのは一種の危険思想だとは思います。
自分で言うのもアレですが。

掲示板時代にあれほど言われた「リア充爆発しろ」が
今やまったく使われなくなったのは何故なのか、という議論を以前読みましたが(ソース失念)、
そこにあった意見として特に共感されていたものに、
「リア充と非リア充の境界が曖昧になり、純粋なリア充の人口が減って見かけなくなった」
「恋愛する相手がいる=リアルが充実しているという価値観が古くなった」
というものがありました。
確かにTwitterに籠もっていると、他人の幸せ報告なんてほとんど見かけません。
その辺はおそらくFacebookとの棲み分けができているというのもあるのでしょう。
本当にレール上の人生を往く人はFacebookで友達に対して拡散すればそれで十分で、
開かれたネットコミュニティにわざわざ垂れ流す意味がなくなったのではないでしょうか。
巨大掲示板時代はそもそもSNSがないわけで、今よりもネット全体がずっと窮屈でした。
だからネットコミュニティに先行した非リア充勢が、
自分たちの受け入れられない空気感をネットに持ち込まれては困ると考え、
その辺の古参勢の気持ちが冒頭の「リア充爆発しろ」といったスラングに
コミュニティの自衛として現れている気がします。

それにしても確かに当時「リア充爆発しろ」という声に対して
「そんなことを言うのは良くないよ」と異を唱える人は絶対的に少なかった。
だから、あたかも大学時代当時の自分はそれが正しい価値観なのだと考えていたことさえあり、
それがへばりついて今も残っているのではないかと思っています。
時間が経って、社会経験を経ることでそれが間違いだったということはなんとなく分かるけれど、
でも一方で他者に嫉妬する感情そのものは偽りようのない現実のもの。
そこで、客観的には間違っているんだけど、自分は正しいと思いたいという矛盾が発生するわけです。
このときに矛盾していることから目を背けて「自分は正しい」と言い切ってしまったとき、
それこそが世間一般で言うところの「悪」になり得るのではないでしょうか。

自分が正義とはこれだ、と語れるようになるにはまだまだ教養が足りなさすぎるので
この手の話題はそういう意味でも危ういのですが、
前記事はそういうわけでちょっとしたプチワル披露になっていたという意味では
ちょっと格好悪い記事でしたね。

いやでも、ちょっと考えてみてほしいんです。
恋愛相手がほしいとか声高に叫ぶほどではないにせよ
今回の帰省や夏休みを前に改めて人との縁の薄さに思い悩んでいるところに、
ただ「彼女と別れたけどすぐに彼女ができた!!」という報告だけをされてどう思うか。
何が正義か、倫理的にどうか、というベクトルで言えばそれを否定する自分は愚かなのかもしれない。
でも、純粋に感情としては不快だったのは確かで、
その落としどころが見つからずにこうしてモヤモヤとしているのも事実で、
これはこれで否定しようがないと思うんですよね。
そもそも「他人の幸せ」というのは「自己」の感情にとって強いマイナスをもたらすものなのかも。
そういえば「リア充爆発しろ」が廃れてからほどなく「他人の不幸で飯がうまい」
というスラングがやたら流行りましたが、今回はそれの逆バージョンのような気がします。
今回は「間違っていないが、無粋だ」と言って貶めるのがギリギリのラインでしょうか。

ここまで考えると、つまるところ自己顕示欲に餓える自分がその行き詰まりを薄々感じているのも、
原因としては共通しているように思います。
つまり、自分が他人に認識してもらって自己顕示欲を満たそうとするとき、
見せられた側に同じような願望がある場合、
自分は爆発してほしいくらいの存在に思われている可能性が少なからずあると。
そして自分はこんな負の感情を逐一相手に説明しないように、
自分以外の他者も同じように自分に対して本当に何を思ったのかは説明してくれないのが普通です。
ある年齢を超えてそれが分かってしまったから、
上辺だけのレスポンスにどうしても満足できないし
本当に自分が伝えたいことを表現できたのかどうかが分からないままモヤモヤが蓄積していく。
そもそも自分がさまざまな場面で他者との関係に満足できないのは、
この辺の他者と自己との間にあるブラックボックスが原因なのではないか、と。
そのせいで自分の中には常に他者の本音や本心を計りかねる不安があり、
それが「自分は他人を知り得ない」という社会不安に繋がっているのかも。
というのはちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、
ともあれ道徳的にどうのこうのとは別にある線引きが優先する場面もあるんだなということを
今回の件で少し垣間見た気がします。

これを話す・聴く・書く・読むことによってなんとかしようとするのは
技術的なアプローチになるでしょうが、根本的な問題はそれでは解決しないような予感はします。
自己と他者の位置の捉え方と言うべきか……。
コミュニケーション能力よりもう少し根の深いところに原因があるのではないかと。

さて、自分が本当に相手に伝わったと思う瞬間、あるいはその逆を実感する日は果たして来るのか。
あるいはその日までは知った顔の幸せが折れるのを祈り続ける日々が続くのか。それも嫌だな。
そんなことを言っているうちにいろいろな人との縁が切れて社会と隔絶してそうですが。
仮にそうなったとき、果たして自分は今の自分の考え方を「悪だ」と罵っているのか、
あるいは社会道徳的には間違っているが言っていることは分かる……
と言葉を濁すことになるのか。十年後をお楽しみに。

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