#4977

100年前の大人に思うこと


備忘録


今改めて、「あれはなんだったんだろう?」という昔の記憶を掘り起こす企画『』、
第2回は大正時代・志賀直哉の短編小説『清兵衛と瓢箪』(1913年)です。

*  *  *

瓢箪に熱中する12歳の小学生「清兵衛」と、それを「子どものくせに」と快く思わない父親。
ある日、清兵衛は喉から手が出るほど素晴らしい瓢箪を手に入れるのですが、
喜びのあまり、学校に持ち込んでまで手入れをしているところを教師に見つかってしまい、
その瓢箪は取り上げられてしまいます。
教師は怒り、清兵衛の母親をこっぴどく叱りつけ、清兵衛はそれを聞きつけた父親に殴られたあげく、
家にある瓢箪をすべて玄能で割られてしまいます。

清兵衛の瓢箪を手に入れた教師は、それを穢れたものでもあるかのように小使いに渡します。
賢しい小使いはそれを骨董屋で50円(=当時の教員の三ヶ月分の給料)で売りつけたことを、
教師には言わずに密かに喜ぶのですが、
そんな小使いも骨董屋が地方の豪家に600円で売りつけたことはつゆ知らず……。
そんなことを知る由もない清兵衛は瓢箪の代わりに絵描きに熱中するようになるのですが、
まもなくして父は絵にも小言を言うようになるのでした。

*  *  *

自分の学生時代にはこの作品は高校の教科書に載っていました。今はどうなんでしょう。
それで、自分はこれを初めて読んでから十年以上経って未だに疑問に思っていることがあります。
当時これを読まされた高校生は何を思っていたのだろう、ということ。
少なくとも自分はこの作品に登場する父親や教師に酷く憤慨したものでした。
ゲーム好きな自分自身と、
それを必死に規制しようとする周囲の大人たちに重なる部分があったからでしょう。
こんな100年近く前の昔から大人世代とはわかり合えない「壁」があり、
やっぱりそれはどうしようもないものなんだとがっかりもしたものです。
そして、全体を通じて「大人側」を悪者として描写している作家には好印象を抱いたものでした。

何故清兵衛の父親は、瓢箪を愛する息子を快く思わなかったばかりか、
それを捨てて新しく始めた絵画の趣味にまでケチを付けようとしてしまうのでしょうか?
自分は、これは子育てをしようとする前に自分なりの答えを持っていなければならない、
人の営みとしてとても根の深い問題であるように思っています。
……まぁ、この記事は“独り言”の類ではないのでその辺の掘り下げは控えておきますが、
一言で言えば親が子に抱く理想像と現実とのギャップなんじゃないかなぁ、と。

問題はこれが自分自身や志賀直哉といった一部の条件に当てはまる人間だけの話なのか、
あるいは日本国内に限ってよくある話なのか、はたまた全人類的な悩みなのかということ。
自分は高校当時、この話に強い憤りを感じましたが、
果たして同世代の人間のうち、同じように考えた人間は果たしてどれほどいたのか?
必ずしも全員が清兵衛の味方ではないような気がしてならないんですよね。
その清兵衛の味方ではない人間の意見を聞いてみたかったなぁと思った次第です。

これを文学的な立場から捉えれば、著者の置かれていた境遇、発表時期の時代背景、関連作品、
あるいは白樺派というものがなんだったのか……というものを深く掘り下げることによって、
それが単に作者の素直な気持ちとして描かれたものなのか、
あるいはその時代の人々によくありがちな場面を代弁したものなのかの区別は付くと思いますが、
少なくとも高校の国語の授業では
「なぜ父親は清兵衛が絵描きに対しても小言を言うようになったか?」
といった考察の機会はなかったんじゃないかと思います(あったけど忘れているだけかも)。

今思えば、国語の授業というのは
こういった素朴な疑問を自分なりに考える場としてはうってつけの科目だったのかもしれません。
ただしそれは自分とは一線を画する他人の意見を受け入れられてこその話ですが。
当時こそ自分は「国語が得意」と豪語していた……というとちょっと大袈裟ですが、
それはただ単に「テストで点が取れていた」というだけで、
本当の国語の魅力には当時何も気付いていなかったのかも。

……というか、そもそも国語の授業って、なんだったんだ??

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