#5000

Instrumental V


創作

視界の片隅で水泡が線を描きながら上がっていった。
誰かのあくびだったのかもしれない。
そこは、見渡す限り灰色の水で満たされる世界だった。
私は尾ひれを半ば無意識にはためかせながら、灰色の世界を少しずつ進んでいく。
しかし、進んでいるという感じはまるでしない。

時折、海底は曲がりくねって山を形成し、
びっしりと並ぶ珊瑚礁の村は灰色の世界をわずかに彩っていた。
よく目を凝らしてみると、そこには豆粒ほどの魚やカニ、あるいは海底を這う虫たちが
珊瑚の村で生活しているのが見えた。それもひとつの“世界”なのだろうと私は思った。
世界という言葉自体は大きさを規定しない。

彼らを見ていると私は無性に寂しくなって、口を開けて声を上げてみた。
それは水を伝う音波となって、仲間だけに伝わる言葉になる。
しかし、私は無性に胸の内を満たすこの感情を声にする術を知らなかった。
音波は仲間に届いたとしても、それは「私はここにいる」というメッセージにしかならない。

結局、音波が届く場所には仲間はいないらしかった。
相変わらず目の前には灰色の水で満たされた世界しか存在しない。
私はふと、今までに泳ぎ続けてきた私の姿と、
これからも泳ぎ続けるであろう未来の私の姿を思い浮かべた。
同じような景色をこれからも見続けることに、何か意味があってほしいと思った。

私たちは生まれた瞬間に生きていく理由が備え付けられているわけではない。
生きる理由というものは、その途中経過に自分なりの意味づけをしたとき、
その延長線上にあるものに過ぎない。
それは例えば希望的観測だったり、あるいは絶望だったりするが、
どちらにしてもそれ自体は「私」本人による選択、願望、あるいは諦観にすぎない。
目の前の景色が鮮やかに彩られた珊瑚の海だったとしても、
泳いでも泳いでも景色の変わらない灰色の海だったとしても、
どのような意味を見出すのかはそれぞれの自由であり、否定される余地はない。

この先に何があるのかは誰にもわからない。あるのは、これまでに辿ってきた記憶だけだ。
私はそれを健気に守っていくことしかできない。
それが一寸先の闇に立ち向かっていく唯一の術だと信じている。
だから私はさっき見た小さな珊瑚礁の村のことも、いつまでも忘れずに留めていたい。

そうして今日も私は泳ぎ続けるのである。

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