#5026

時間不足について


今日は「何々をやりたいが時間がない」という表明について考えてみたいと思います。
これはいちおう自戒を込めてという名目で書きますが、
周囲でそれを見聞きしたときの批判的精神にもとづいて書くのでその点はご了承ください。

学生ではない年齢になってから、
頻繁に「やりたいけど時間が……」という声を耳にするようになりました。
それは当然ながら自分も例外ではなく、昨今増えまくっている積みゲーの数から言っても明らかです。
それらを見ると「せっかく買ったのにもったいない」という気持ちが少なからず沸き上がってくる。
それが義務感に変わってしまうとますます手が出なくなったりします。

これはゲーム以外にも通じることではあると思います。
世の中には無数の面白そうなことが溢れている。手を出そうと思えば手は出せるように思える。
しかしそれらに設定される実生活上の優先度が低いために、
相対的にそれ以上に優先度が高いタスクで手一杯であると感じると、
「やりたくても時間がない」と思うようになる、のではないかと考えています。
タスクの優先度は、いわゆる欲求段階説の下に行くほど高くなります。
当然寝たり食べたりといった生理的なこと、生命維持にかかわることが最優先であって、
資格を取りたい、何かを作りたい、成し遂げたいといった高次な欲求は優先度が低くなるわけです。

これは、「やりたいけど時間がない」と感じる対象のタスクの欲求レベルが高い場合。
もうひとつ、他人からの役割や承認を手放したくないために言うパターンがあると思います。
例えばある活動をする人たちが集まるコミュニティで、
昔大きな実績を挙げて多くの人に「あの人は○○を成し遂げた人だ」と認められたとします。
すると、その実績の程度はさておき
少なからず本人も「自分は○○を成し遂げたんだ」という自負が生まれてくるし、
それがコミュニティへの帰属意識に繋がるわけです。しかし次の実績を生み出せるとは限らない。
「昔の自分を越えられない」が慢性的に続くと徐々に意欲は低迷していきます。
しかし昔の実績に基づく自負がある限り、
今やそれを下回っていることをコミュニティで認めると、その立場が危うくなるかもしれない。
コミュニティを切り捨てる覚悟はないが昔の実績を超えられる自信もない、
あるいは今の自分は昔のような意欲はすでにないことは分かっているがそれを認めたくない、
そんなときに今後の見通しについて訊ねられたとき、
つい口をついて出るのが冒頭の「やりたいが時間がない」という表明なのではないでしょうか。

例えば昔からAというコミュニティに所属しているが意欲低迷によってAの活動を中断している人が、
次にBという界隈に興味を持ったがそのコミュニティにはまだ所属できていないので
仕方なくAのコミュニティでBのことを話す。
すると当然A界隈のBに興味ない人間から「Aの活動はしないの?」と訊ねられるのですが、
当人自身は今はBで頭がいっぱいなのでAに構っている暇はないしもとよりその意欲もない。
しかしAのコミュニティから離れたら自分の話を聞いてくれる人が減ってしまうので、
「Aをやりたいが時間がないんです」という言い訳に逃げる。そんな感じだと思います。
こうして書き出してみると実生活というより
趣味を前提とするネットコミュニティに特有の話かもしれないですね。

さらに蛇足ですが、このときAのコミュニティでたまたまBに興味を持つ人が多くいたりすると、
「Aをやりたいが時間がない」と表明した人をきっかけにコミュニティがB寄りになり、
元々Aのために存在したはずのコミュニティそのものが変容してしまうこともあり得ると思います。
当然これはAだけが好きな人にとって不快であることは言うまでもなく。
二年前の某界隈でこれに近いことがあったような、なかったような。

同様の表現をブログで使いまくっている自分が言うのもなんですが、
個人的には、「何々をやりたいが時間がない」というのは、
表明する場や条件にもよりますが大抵は妄言、あるいは「逃げの一手」なのだと思っています。
加えて、責任が伴わない表明の場でそれを言うことはあまり格好の良いことではないと考えます。
ある程度の地位があるのにこれをやったら不信に繋がることは当然だと思いますが、
それは表明する人間を支持する人が極端に少ない場合でも、自分自身の不信を買いかねません。
ショーケースの向こう側に憧れてはいるけれど実際に手中に収める努力を何もしていない、
そんなイメージです。まあ情報過多な今はそんなことはわりとありがちなことかもしれませんが。

最近「何々をやりたいけど時間がない」を多方面から耳にしたものだったので少し批判してみました。
こう言ったからには自分も時間を言い訳に保留の数を増やしていくのは
なるべく減らしていきたいところですがね……。