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独り言


大人になるとはどういうことか、という問いに対する答えを考えるにあたって、
一番最初から確かに存在していたにもかかわらず目を背け続けてきた答えがひとつある。

――大人になるということは、自立するということだ。

表の反対が裏であるとは限らない。
他人が優れているからといってただちにそれが自分が劣っているということにはならないし、
あることができる人が賞賛されているからといってそれができない人が貶められているわけではない。
何も言われないからといって、それが許されているとは限らない。
子どもではないということと、大人であるということはイコールではない。

20代前半から今に至るまでを振り返ってみると、僕は今まで大人になるということに対する理解を
「子ども時代を否定すること」という解釈によって押し進めてきたかの観がある。
そんな20代の自分が定義する大人とは「逃げられない目標」であり、
それに対する子どもをどこかで「夢を追う自由人」とみなしてきた。
大人時代が現実なら子ども時代は夢の中。人生とはいわば理想から下っていく滑り台のようだ。

しかしその考え方には「続き」がない。
子ども時代を理想として据えてしまうと、時間を逆行できない以上夢を果たすことはできず、
さも延々と「理想ではない世界」で「生き続けなければならない」閉塞感がそこにはある。
大人時代を肯定するということを自動的に「子ども時代を否定すること」
と理解しようとすると人生が行き詰まってしまう。
なぜなら、子ども時代とは自分自身そのものであるからだ。否定できるわけがない。

そうして行き詰まってみてようやく、
大人になるということは本当に子ども時代を否定することなのか、という疑問に行き着く。
単純に、「逃げられない目標」の先が子ども時代のような何かであるかもしれない。
つまり、これら文脈でいう「大人」と「子ども」は共存しうるのではないか。

20代の十年間の役割は、
子どもの妄想をどこまで現実にできるかという選定作業が多くを担っていたと思う。
視野の狭かった頃の夢想には馬鹿げたものや非現実的なものが多くを占めているが、
それが自分そのものであることはもはや疑う余地もなく、そして否定のしようがない。
真剣にそれらの中から選んだものをまず自分自身が認めて、
そして他人に認められるようになってようやく、「自分」はこの世に生きているという実感を得る。

現実社会はとても緻密に奥深くできていて、一端の凡人が口を挟むほどの余地はない。
お金や倫理、法律や言語という共通の価値観を本当に多くの人が否定せずに暮らしていて、
頑張った人間がおおむね頑張っただけ報われるようになっている。
現実はそんな等価交換の原則によって成り立っているらしい。

ただひとつ、その価値観を崩すものがあるとしたら、それは家庭であり親の存在である。
社会ではお金と引き換えないと得られないものを、
親は当たり前のように子に与えるし、それを子も当然だと思っている。
しかし、どこかでそれを「当たり前ではない」と思わなければ社会に入り込むことはできない。
何をするにもコストのかかる社会よりも、
コストを肩代わりしてくれる人間のいる家庭の方が居心地が良いに決まっている。

家庭サービスを「当たり前ではない」と思った新しい価値観を信じることができたならば、
次に社会から求められるコストを自分で支払える覚悟を抱く。
それらが現時点の僕にとっての「逃げられない目標」、すなわち確固とした大人像である。

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