#5100

独身の話


独り言


去年の今頃に同い年の従姉が結婚したことが契機となり、
2017年は自分にとって結婚するということはどういうことか、
について考えざるを得なくなった一年だった。そしてそれはこの一年では結実しなかった。
一年というスパンでは結論が出ないほど問題が山積しているし、
その山を崩すための意欲も圧倒的に不足している。
現時点では、自分自身が結婚しなければならない理由や
結婚することによって満たされるものが何なのかといった疑問を飲み込むことができないでいる。
そもそも、その前段階としてあるはずの恋愛すら何なのかが未だによく分かっていない。

学生時代の片想いは、好きな異性をいかに自分なりに見出すかという「衝動」だった。
そこに理屈や論理が介在する余地はない。
好きだと思ったら好きになる。片想いなら破局もあり得ない。
「理想の異性とはどのような姿か」という妄想に対してひたむきに走っているだけで許され、
その綺麗な物語に自分自身の姿はない。
小1から高3、大学時代に至るまで、どんなクラスでも輝いて見える異性はいたものだった。
愚かだったと思うが間違いなく幸せな時代であったとも思う。しかしあれは恋愛ではなかった。
意思の疎通を端から諦めている状況を恋愛と呼ぶにはいささか苦しいところがあるだろう。
それを恋愛と認めてしまったら、遠く彼方にいるアイドルや有名人、
あるいは平面に作られたキャラクターとさえも「恋愛」が成り立ってしまうことになる。
意思の疎通をなくしては恋愛は成り立たない。
恋愛する前の段階に「好きになる」という段階があるのだと僕は思う。

従姉の結婚がきっかけで2016年末には祖父の「早く結婚しろ」という孫世代への鼓舞と、
それを鬱陶しく思う孫世代との間に深い溝ができてしまった。
恋愛や結婚は第三者に強制されてするものではあってはならないと強く思う。
では、自主性にすべて任されたとして、それは成就する可能性はあるのだろうか?
あるいは、祖父の言い分はさておくとして、僕はパートナー探しに奔走するべきなのだろうか?

その煩悶を机上論で済まさないためにいわゆる合コンに参加してみたある夏の日、
僕はこの道のりの遠さと、恋愛するために恋愛しようとすることのおぞましさを垣間見た。
その場では、まずテーブルに向かい合う異性を各自が「採点」していき、
この人だと思った上位3人を主催だけに教える。当然、異性も同じ事をしている。
主催が秘密裏に集計し、それぞれがお互いに高評価を出すと「カップリング成立」となる。
誰と誰が成立したかは会の最後で大々的に発表されるという筋書きである。
まるで独身者は陳列される商品のようだ。
実際の市場と違うのは、「買い手」自体も商品であることくらいか。
そして相手の本性は買うまで分からない。それぞれが上っ面だけで接しているのがよく分かった。
このシステムでカップリングが成立したとき、果たしてこれを恋愛と呼べるのだろうか。
システムの上の恋愛は理屈や論理で塗り固められていて「衝動」が介在する余地がない。
つまり、「好きになった」結果それが恋愛に発展するのではなく、
相互評価の上で恋愛対象を決めておいて、いかに選んだ相手を「好きになれるか」という世界だ。
これを純粋な恋愛と呼ぶには厳しい気がする。

つまり僕にとって恋愛とは、自分自身が持つ属性が引き合わせた異性との出会いをきっかけにして、
まずは理屈抜きで好きになり、そして好きだという感情が意思の疎通を後押しして、
その意思の疎通によってそれぞれの内在を強く認め合うことで成立する、
いわば「異性を通じて自分自身を深く抉る行為」であると思う。
相手の目に映る自分を認められなければ「人を好きになる」などという恐れ多いことはできない。

だから恋愛のためだけに恋愛をし、
そして相手の了承を得ているのかも傍から見て分からないような一方的な恋愛をしている人を、
僕は心の底から軽蔑している。
生理的欲求や社会的ステータス欲しさに自意識を囚われ、
自分を省みずに恋愛に奔走しようとする人に見定められた異性は不幸なのではないかとさえ思う。

しかしある年齢を超えると、恋愛の先に結婚があり、
世間はそれを当然の通過点として認識していることは誰もが知るところではある。
結婚というのは家庭を運営すること、ひいては子どもを育てるということであって、
育児は愛の大きさという目に見えないものだけではどうしようもない。
育児に必要なのは社会的地位あるいは金銭、知識、常識、コミュニケーション能力等々枚挙に暇がない。
自分たちの責任でいのちを育てようというのだから、その重さはもはや言葉では推し量れない。
これは異性をというより、人を愛せるかという問題でもあると思う。
それは、自分だけが満足すればそれいいやという価値観で生きてきた人間には殊更重くのしかかる。
とても好きな人にその片棒を担がせようとは思えないし、自分一人で背負えるとも思えない。
ではどうやって分け合えば良いのかと言っても、独身の段階ではそれも推し量れない。

しかし、「やったことがないこと」ができるかどうかわからないからといって、
それを「やらない方が無難だ」という結論に導いてしまったら何も始まらないのもまた事実である。
完璧になるのを待っていたら永遠にその機が訪れないことはこれまでにも痛いほど経験してきた。

つまり、ここでは「できるか・できないか」はあまり問題にはならない。
「結婚したいかどうか」といった意欲の問題についても、
見定める相手がいない段階で判断するのも無理がある。
結局のところ、僕はまずこの歪んだ精神が他人を認められるようになるまで試行錯誤を繰り返して、
その過程で出会うであろう様々な人から輝く何かを見出すしかないのだろう。
そうやって「生活」そのものを追求していく先に、
自分の空間に誰かを迎え入れたいという欲望、すなわち結婚願望が芽生えるのかもしれない。

人は独身だろうが既婚だろうが、それぞれが自分なりに自分のために何かをしている。
それだけは疑いようもなく平等にあるべき事実である。
しかしその先にたまたまたぐり寄せる赤い糸があるかどうかは、誰にも分からない。
分からないが、もし万が一赤い糸を手にしたならば、
それが「自分以外の幸福をも追求しなければならない」
という約束を伴うものであるということを、覚悟して手に取りたいものである。

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